le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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『メゾン・ド・ヒミコ』ーーほんもののなにかに出あえる映画

10日、三たび『メゾン・ド・ヒミコ』をみた。
それにしてもなんと美しい映画なのだろう。8月に初めてこの映画をみて以来、毎日のようにこの映画のことを反芻しているのに、『メゾン・ド・ヒミコ』はやはり新鮮だった。そしてなにより、とても美しかった。映画をみおわったあと、すなおに「美しい」といえることが心地よかった。
ある作品に接して、「美しい」といえれば充分という作品、いったいどれだけあるのだろう。『メゾン・ド・ヒミコ』はそんな希有な作品だ。そしてその美しさは、なにか激しい出来事があれば浮き飛ばされてしまうようなそんなひ弱な美しさではなく、逆にすべての事態を吹き飛ばしてしまうような力強い美しさなのだ。
実は今、私は『メゾン・ド・ヒミコ』のそんな力強い美を発見したということで満足しているのだが、それでもあえて、なにかもう少し書いてみることにしよう。

   *    *    *

まずオープニング。
沙織はなぜメゾン・ド・ヒミコでアルバイトする気持ちになったのだろうか。
映画のなかで、それは高額のアルバイト代のためと、いちおう説明される。
でも私はそうではなく、メゾン・ド・ヒミコでアルバイトすると決心した瞬間、沙織はすでに卑弥呼を許していたのだと思った。そうではなく、卑弥呼がどうしても許せない、その存在がどうしても認められないというのであれば、いくらお金が欲しくてもこのアルバイトは引き受けなかったと思う(現に沙織は風俗のアルバイトをしていない)。でもその許しは沙織の心の中の自分でも気づかないような奥底で行われ、沙織自身も自分が卑弥呼を許しているとは気づいていない。だから、「このアルバイトをするのはお金のためなんだ」という、自分を納得させるための口実が必要だったのだと思う。
私がその思いを強くしたのは、卑弥呼の部屋で、沙織の口から母親の最後の様子が語られるシーン(実は今まで、このシーンの重要性に気づいていなかった)。
亡くなる直前、母親はぼけてまわりの人が認識できなくなり、看病する沙織を卑弥呼と思ってうれしそうにしていたという。この事実を語りながら、沙織は、卑弥呼に向かってなぜ自分たちを捨てたのかと問いつめるのだが、実際には、卑弥呼の思い出にひたりながらうれしそうにしている母親をみて、沙織は卑弥呼をなかば受け入れていた(受け入れなければならないと思った)のであろう。
だから、この映画は、世の中で語られていることとは逆に、ゲイである父親と娘の葛藤の映画ではまったくない。
考えてみると、卑弥呼がゲイバーのママになる決心をして家を捨てる前、卑弥呼と母親はどのように接していたのだろうか。私には、ゲイバーのママになると決めた瞬間から卑弥呼の性格が突然変わったようには思えない。そうではなくて、妻にカミングアウトする前から、卑弥呼は他の男とは違うなにかしらナイーブな面をもった男性であり、彼女はほかの男とは違う卑弥呼のそうした面を含めて、卑弥呼の全体が好きだったのではないだろうか。卑弥呼のカミングアウトは、そうした妻への卑弥呼なりの誠実さゆえであったと私は思う。卑弥呼にカミングアウトされた瞬間、妻はショックを受け裏切られたと思ったであろうが、時が経つとともに卑弥呼のカミングアウトを受け入れていったのではないだろうか。
だから、沙織の春彦への感情は、そんな母親をみながら育った娘の自然な反応ともいえる。ゲイバーのママとなって母と自分を捨てた父親への反発から「強い男」を求めながらも、心の奥では「弱い男」に惹かれてしまうのだ。
こんな風に考えていくと、『メゾン・ド・ヒミコ』は、人間と人間の葛藤を描いた映画ではなく、悲惨な現実にがんじがらめになっている女性が、自分の心の底に潜んでいるほんとうの自分への扉を少しずつ開き、自分を解放していく過程を描いた映画だと気がつく。
だからこの映画はさわやかなのだ!

そんなことを考えていたら、この映画のなかで歌われるドヴォルザークの『母が教え給いし歌』は、他にかえようがない見事な選曲であることに気がついた。

「母が私にこの歌を
教えてくれた 昔の日
母は涙を浮かべていた

今は私がこの歌を
子供に教えるときとなり
教える私の目から涙があふれ落ちる」
(堀内敬三 訳)

何も波乱のない人生、何も波乱のない愛なんて、人生でもなければ愛でもない。
波乱があるからこそ人生も愛もすばらしい。
そしてこの思い、波乱のない人生を送り、人との波乱のない接触を愛だと思っている人には伝えようがない。
人は傷つき、もがいてはじめて、人生の、愛のすばらしさを自分で発見する。
その時歌う愛の歌は、同時に涙の歌でもあるのだ。

    *    *    *

沙織の「触りたいとこないんでしょ」のセリフのあと、普通に考えれば、現実の世界ではそれに対する春彦のリアクションがなくてはならないのだが、観客が固唾をのみながら春彦の次のセリフを待っている瞬間、画面はさっと海の光景にカットインする。
卑弥呼の葬儀が終わり、沙織がメゾン・ド・ヒミコを去る決定的な瞬間、春彦は無言で、別れの仕草はなにも行われない。
このなにも語られずなにの仕草もないということにわれわれは感動する。
なにもないから、そこにはなにかがかんじられるのだ。ほんもののなにかが!


この映画のなかで『母が教え給いし歌』が歌われるお盆のシーンのことを考えているうち、あの後の細川との情事の最中、沙織がなぜ泣いていたかということの意味に、はっと気が付いた。沙織曰く、「私が泣いているのは専務が考えるどんな理由とも違います。」
では、なぜ?

私はあの瞬間、沙織は自分が春彦を愛していることに気づき、そしてその次の瞬間、卑弥呼に対する母の愛をすべて了解したのだと思う。
この映画が母と娘の葛藤を描いた作品だとすれば、あのシーンは、母と娘の和解を描いたシーンだったのだ…。

画面(舞台)に登場しない人物が作品のなかで最も大きな役割を締め、登場人物を動かしていく、そんな意味では、この作品の構造はベケットの『ゴドーを待ちながら』や三島の『サド侯爵夫人』の構造と似ている。いずれの作品でも、母親、ゴドー、サド侯爵をどのようにとらえるかが、作品の理解と深くかかわってくる。 (10/14 追記)
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テーマ:映画 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2005/10/13(木) 14:07:27|
  2. 映画
  3. | トラックバック:12
  4. | コメント:31
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コメント

すごくよかったわ。それにしても何度も見るのね。遊びに来てね。
  1. 2005/10/13(木) 23:45:57 |
  2. URL |
  3. あん #-
  4. [ 編集]

さっき、<7つの顔を持つ女>にコメントを書いていて、思い出したのが、「キャリントン」でした。
ゲイと彼を思うキャリントンの話です。
見て頂けると、嬉しいです。
  1. 2005/10/14(金) 01:36:30 |
  2. URL |
  3. sea1900 #-
  4. [ 編集]

リアリティをめざさない

あんさん、コメントありがとうございます。
sae1900さん、あちこち探しまくって「7つの顔を持つ女」のコメント、拝読しました。
   *    *    *
ところで、『メゾン・ド・ヒミコ』って、ほんとに奥が深いですね。さきほど追記を書きましたので、こちらの方もぜひどうぞ。
でも結局、この映画を評価するかどうかって、「リアル」ってことを表現としてどうとらえるかっていう問題だという気がしますね。
ダメっていう人の多くはこの映画にはリアリテイがないと言っているんだと思うんですが、この映画に(直接的な)リアリティがないということには私も同感なんです。ただそのうえで、作品としては、リアリティをめざさないというタイプのものもあるわけで、『メゾン・ド・ヒミコ』はそういう作品だと思います。そして私は、直接的なリアリティをめざさない、作品に直接的なリアリテイはなくてもいいんだと考える犬童監督の姿勢を非常に高く評価します。
  1. 2005/10/14(金) 12:34:10 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

初めまして。

TBをありがとうございました。
ほんとうに美しい映画でした。

>「私が泣いているのは専務が考えるどんな理由とも違います。」
私はあの台詞は愛がなくても結ばれるのに、愛があっても結ばれないという悲しみの涙だと思ってます。
細川さんには想像もできないことでしょうね。

そう言えば2度目の落書きを見た細川氏の「僕の負けだ」みたいな顔が面白かったです。
精神的な絆のほうが強い!笑
映画はドキュメントというジャンルがあるんだから、少しくらいリアルじゃないほうが面白いと思います。

結局、この映画は少し風変わりな父と娘の物語のような気がしています。
  1. 2005/10/14(金) 19:18:47 |
  2. URL |
  3. あいり #mQop/nM.
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  1. 2005/10/14(金) 22:11:41 |
  2. |
  3. #
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母親が浮上してきましたね。

なるほど。
見るたびに新しい発見をなさっているようですね。
不在の母と卑弥呼の日々。
描かれていないその日々に核心が隠されているという指摘は
なるほど、そうだと思います。

沙織とゲイの父との対決だという風に前半では思わせておいて、
どんどん深い別の側面へといざなってゆく。
そして、一つの解釈を押し付けないから
いつまでもはっきりとした答えが出ない。ずっと発見し続けられる。
そうした楽しみを与えてくれる映画でもありますね。
  1. 2005/10/14(金) 23:00:27 |
  2. URL |
  3. akaboshi07 #-
  4. [ 編集]

はじめまして

早速エントリーを読ませていただきました。
知的な雰囲気のただよう大人のブログですね。
すごいなぁ…。

メゾン~の感想、読みました。
細川との情事の時の、沙織の言葉の解釈にとても感銘を受けました。
あの時、母と同じようにゲイを愛した自分に気づき、母の気持ちを理解できた…。
なるほど、そうだったんですね。
あのシーンの大切さが改めてよく分かりました。
『めぐりあう時間たち』の時もそうでしたが、この映画も、
見るたびに理解が深まりそうです。

余談ですが、『タッチ』の原作はとてもよくできているので、
機会があれば是非(^^)。
『外す』という意味もよく分かると思いますし、
最大の魅力である絶妙な『間』も堪能できると思います。
確かに原作の独特な空気を表現するとしたら、犬童監督が適任かもしれません。

また寄らせて頂きますね!
  1. 2005/10/15(土) 00:26:48 |
  2. URL |
  3. ヒロシ #L1ch7n1I
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TBありがとうございました

サオリと母親、という観点からのレビュー、興味深く読ませていただきました。
そして、サオリの涙も。

何度も観ると いろいろなことに気づくし、理解も深まりますね。
DVDが出たら 買って何度も観ます。
  1. 2005/10/15(土) 10:07:08 |
  2. URL |
  3. kino #-
  4. [ 編集]

風変わりな父と娘

あいりさん、こんにちは。
『メゾン・ド・ヒミコ』の一つ一つのシーンは、受け取り手によってどのようにもとれるように描かれてますし、私がこのブログに書いているのもそうした一つの解釈にすぎません。たぶん、正解なんてないんですね。
あいりさんのいう「風変わりな父と娘」のこともまた少し考えてるんですが、たとえば、沙織は卑弥呼が家を捨てたから恨んでいるのか、卑弥呼がゲイだから恨んでいるのかとか、いろいろ考えてくると、恨む理由ってないんですね。卑弥呼がゲイだってことはしかたがないことだし、卑弥呼がそれに気づき、ゲイバーのママになると決心した時点で家を捨てたのも他にとりようがない選択だと思う。いろいろ選択の余地があるなかで、まずい選択をしたというならその人は責められるべきだと思いますが、どうしようもない必然の選択を責めることはできないと思います。
だから、沙織は、たとえば「あなたはなぜゲイなの」っていう風には卑弥呼を責められない。受け入れるしかないんです。
ですから、あいりさんのいう「風変わりな父と娘」の映画というの、当たっていると思います。
  1. 2005/10/15(土) 11:43:57 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
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and

秘密のコメンターさん、そのことは気がつきませんでした。ありがとうございます。
いろいろなこと、その後、いい方向に進んでいるようで安堵しております。
  1. 2005/10/15(土) 11:48:25 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

お久しぶりです。
http://www.cinemarise.com/cgi-bin/rise_search.cgi?tmpl=detail&year=2005&just1=2005008&exp1=1←こちらに書いてある18日のトークショーは見に行かれますか?ロードショー中に舞台挨拶があるなんて、初めて聞きました。それだけ、注目を集めているんですね。これは見に行かねば。
  1. 2005/10/15(土) 15:12:51 |
  2. URL |
  3. BunMay #H.4ahg6Q
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宿命との葛藤?

Bun Mayさん、貴重な情報、ありがとうございます。トークショー、行きたいなあ…。

ところで、あいりさんへのコメントを反芻していたら、ようやく『メゾン・ド・ヒミコ』という作品における大島弓子のコミック『つるばらつるばら』の重要性がみえてきました。『つるばらつるばら』という作品、ゲイの老後を描いているということで『メゾン・ド・ヒミコ』と共通性があるのかなと思ってたんですが、そうじゃないんですね。
このコミックの主人公・富士多継雄は、なにか外からのきっかけがあってゲイとして生きることを選んだんじゃなくて、自分に正直に生きようとすればゲイとしてしか生きられないわけです。
同じように、『メゾン・ド・ヒミコ』では、卑弥呼も母親も沙織も春彦も、自分の生き方を自分で選択してるんじゃなくて、その選択は個人の人格の外で最初に行われてしまっていて、あとはそう生きるしかないという人生を歩いている気がする。彼らの葛藤は、他の人との葛藤じゃなくて、そうしてすでに選択されてしまっているものを受け入れるかどうかの葛藤なんですね。ドラマというものは、通常、人と人との葛藤のですから、そういう眼でこの映画をみると、『メゾン・ド・ヒミコ』には(話は複雑なんだけど)なにもドラマがないようにみえるということじゃないでしょうか。
これは、ハイデガーのいう「つねにすでに」の構造だと思います。
あるいは、ギリシア悲劇(たとえば『オイディプス王』)のような「宿命」との葛藤と言ってもいい。
  1. 2005/10/15(土) 15:33:11 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
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  1. 2005/10/15(土) 20:38:26 |
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  3. #
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  1. 2005/10/15(土) 21:50:46 |
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  3. #
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選ばれしものの恍惚と不安

秘密のコメンターさん、ありがとうございます。
私もたぶん、18日は85%シネマライズのトークショーに行こうと思っています。
   *    *    *
ところで、あいりさんへの自分のコメントをまたまた反芻していたら(akaboshiさん、ヒロシさんなかなかお返事できなくてごめんなさい)、これまでの見方とはうってかわって、『メゾン・ド・ヒミコ』は、ゲイを作品の背景としてつかっているだけでなく、本質的なところでゲイとかかわっている映画だということが、ようやくのみこめてきました(←ほんとトロい管理人ですね♪そんなの、最初からわかってることじゃないですか!)。
つまり、この映画は、自分の人生を自分で選択する人の話じゃなくて、そういう風にしか生きれないように、ある生き方を定められている人の話なんだと思います。
すると自分のことを考えてみても、ゲイというのは、男を愛するか女を愛するか、自分で選択してゲイになるわけではないから(『つるばらつるばら』)、そういうつねにすでに「定められた」人間ではあるわけですね。
で、ゲイは、そうした自分を受け入れながらも、やはりその定められた生き方の外側に出たいと思う瞬間がある。なんで自分がそういう風に選ばれてしまったのかと「つねにすでに」に対して反発するわけです。このいわば「選ばれしものの恍惚と不安」というのは、自分の人生を自分で選択している(と思っている)人にはとても伝えにくいんですが、『メゾン・ド・ヒミコ』が主題として描こうとしているのは、そうした「選ばれしもの(母親と沙織)の恍惚と不安」なんじゃないでしょうか。
だから、そうした恍惚と不安を説得力をもって描くためには、日常、同じような恍惚と不安のなかで生きているゲイという存在が、どうしても必要なんですね。
   *    *    *
『メゾン・ド・ヒミコ』をつくるずっと以前から犬童監督が芸人とゲイに同じように関心を持ち続けてきたというのも、こうした理由からだと思います。
   *    *    *
(ちなみに、私は太宰文学そのものは大嫌いです。あまりにもストレートすぎて…。)
  1. 2005/10/16(日) 11:12:09 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
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犬童監督の視点

『メゾン・ド・ヒミコ』の企画を犬童監督は5年近くあたためているわけですが、それはゲイの老人ホームを描いた映画に誰が金を出すかという資金的な問題でもあるとともに、やはり「視点」の難しさということが絡んでいると思うんですね。
私の周囲のゲイの多くはこの映画に対して非常に批判的で、彼らは異口同音に「ゲイの世界が描けてない」というわけですが、犬童監督はおそらくゲイではないと思いますから、ゲイとしてゲイを描くことはどうしても不可能なわけです。それをやったら、表面的にリアルにみえればみえるほど、嘘の映画になってしまう。で、そのことがはっきりした時点で、犬童監督は、この映画ではゲイとしての一般的なリアリティーを捨てると決めたんじゃないでしょうか。
まあその、ゲイのリアリティーがなにかというのは、それはそれで難しい問題ですが、普通に考えれば、いくら女装願望があるといっても、日常空間で女装したり、お化粧したりはしないと思うんです。ましてネイル・アートは。で、ゲイの多数派(?)は、それをとらえてリアルじゃない、画面に出てくるのは誇張されたゲイの姿だと批判するわけですね。
犬童監督が、メゾン・ド・ヒミコに登場させるようなゲイをゲイとしての普通の姿だととらえているとすれば、それは批判されるべきでしょうが、そうではなくて、犬童監督は、現実のゲイというのが日常生活をどのように過ごしているかを100も承知のうえで、「作品」という現実のうえで必要なゲイを、卑弥呼やルビイやキクエのような姿で描いたのではないでしょうか。日常生活で、毎日頭にターバンのようなものをまいている人なんて、いくら女装願望があるとしても私には考えられない。
だから、頭にターバンをまいて生活している人というのは、リアルな人としてではなく、一種の象徴として映画のなかで動きまわっているわけですね。
で、それが何の象徴かというと、直前のコメントに戻って「選ばれしものの恍惚と不安」の象徴だと思うんです。
つまり、犬童監督は、男の肉体を愛する男として、メゾン・ド・ヒミコの住人を描いているのではなく、自分が選ばれてあるという意識と同時に、その意識からくる恍惚と不安を生きる人間としてゲイを描いている。ゲイではない人間が、ゲイを描くとしたら、こうした手法(視点)しかとりえないのではないでしょうか。
ゲイの日常というのは、別の人が別の作品で表現すればいい、それだけのことだと思います。
   *    *    *
犬童監督は、『タッチ』の原作を「神話だ」と言っていますが、彼はそうした神話を感じとることができる人、そしてそれを表現することができる人ですね。
  1. 2005/10/16(日) 13:52:02 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

心のリアリティー

なんか、いろいろ書いているうちにakaboshiさん、ヒロシさん、そしてkinoさん、みなさんへに書くべきこと、みんな書いちゃったような気がしています。
コメントを残してくださった方も、このブログを読んだだけという方も、どうもありがとうございます。
すぐ上のコメントで「神話」ということに言及したついでに、一言だけ、コメント追加しておきます。
   *    *    *
さて、先日京都に行って、さまざまな仏像や尊像をみましたが、そのなかでも十一面観音というのは、いつみても気になる像です。
十一面観音というのは、像の中心をしめる静かな祈りの表情のうえに、怒り、微小、さげすみなど十の顔がつけられ、それで一体の像となっているのですが、私は、これは、祈ったり、ほほえんだり、怒ったり、泣いたりというさまざまな場面(時間)の表情を一体の像として形象化したのではなく、人間の心というのは、怒っているときに泣いているのであり、泣いているときに祈っているというような、単純に割れきれない複雑なもの、いつも、一つの感情の下に別のさまざまな感情を抱えているということを具体的に形象化したすぐれた像だと思っています。
そういう人間の心がみえなくなって、怒りは怒り、哀しみは哀しみ、喜びは喜びだと「分類」してしまうと、十一面観音はリアリティーを失って、わけのわからないグロテスクな像ということになってしまうのですね。
『メゾン・ド・ヒミコ』は、十一面観音のように、心のリアリティーな忠実につくられた作品ではないでしょうか。
  1. 2005/10/16(日) 16:35:08 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

写真の中の母親

初めて『メゾン・ド・ヒミコ』の納得できるレヴューに出逢った気がいたします。
沙織の母親が、『サド侯爵夫人』や『ゴドーを待ちながら』と同様に、登場せずにその人物像が浮かび上がらせるほどではないにしても、登場しないで卑弥呼との関係や沙織との関係をイメージさせる効果は上げていたと思います。
写真で余りにも直接的な母親の表情を提示したことは、解り易くはしていますが、映像作品においては止むを得ないことでしょうか。
  1. 2005/10/16(日) 17:53:28 |
  2. URL |
  3. butler #0eoXfs3.
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このコメントは管理人のみ閲覧できます
  1. 2005/10/17(月) 10:16:38 |
  2. |
  3. #
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記号としての母の写真

butlerさん、コメントありがとうございます。
写真のなかの母親の表情まではみていませんでした。
ただ、犬童監督がおいかけている大きな問題の一つは、映画のもつリアリティーとはなにか、それはどのように表現されるかということではないかと思いますから、私は、あの写真、「不在の現前」を示す一種の記号としてのみとらえてしまいました。
そうした記号が具象化されたとき、別の意味をもってしまうというのは、難しいところですね…。
  1. 2005/10/17(月) 13:11:21 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

こんにちは。

TB&コメントありがとうございました。

lunatique さんのレビュー、大変興味深く読ませていただきました。

悲しいことに女とは、母親と同じような運命を歩くようにDNAに刷り込まれているのではないかと思うことがしばしばあります。
lunatique さんのレビューを読みながら、そんなことを思いました。

また、寄らせていただきます。
  1. 2005/10/18(火) 15:50:48 |
  2. URL |
  3. toe #-
  4. [ 編集]

沙織と春彦の映画

toeさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
『メゾン・ド・ヒミコ』をもう一度みながら、「ああ、これは沙織と春彦の愛の映画なんだなあ」という気がすごくしました。二人は、かなり早い時点から互いを意識していたのではないかと思います。
たとえば春彦が半田と外出していったとき、沙織は春彦のしたたかな「強さ」に気づき、感心したのではないでしょうか。なんか、春彦もそんな沙織の視線に気づいていたから、あえて「ゲロマズ」と言って、沙織の気持ちをはずしたような気がしています。
これは別のところにも書いてるんですが、この映画のなかの春彦のシンボル・カラー、白だと思うんです。でも、半田とのことがあってと戻ってきたときだけ薄いブルーのシャツを着ているのが、なにか、その時の春彦の気持ちをあらわしているのかなあとも思え、意味深です。
   *    *    *
そんなやりとりがあるから、あのダンスホールでのシーンが、一見突然のようでありながら、実はすごく自然なんですね♪
  1. 2005/10/19(水) 15:44:10 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

コメント&トラックバックありがとうございました。
過去2回の鑑賞記事があるのか定かではありませんが、最新の4記事についてはじっくり読ませていただきました。
私はこれほど掘り下げて鑑賞していないので偉そうなことは言いにくいのですが、さほどゲイコミニュティを知っている訳ではないので、映画として疑問に感じたことをマイブログに書いてみた次第です。
恐らく大部分の観客がオダギリ目当てであったり、「ジョゼ~」ファンであると思うのですが、そのような予備知識のない観客に「ゲイ」の実態を感じさせるには至らず、ファンタジーでしかない部分が賛否の分かれ道であるような気がしました。
以前と比べて一般的な理解度(テレビでの露出を含め)は高くなったと思うのですが、いかんせん「興味本位」でしかないのも事実でして、「HG」の人気などはその象徴のような気がします。
私はこの作品は「映画」として物語の紡ぎ方を考察した方が関心の幅も広がっていい気がしました。どうしても「のんけ」の主人公であるために「見世物」的な印象をぬぐえなかったのです(わたくしだけかもしれませんが・・・)。
※失礼かとは思いましたが既読の足跡として4記事にトラックバックさせていただきました。不要と思われる場合は削除願います。
  1. 2005/10/23(日) 04:11:50 |
  2. URL |
  3. まつさん #-
  4. [ 編集]

生産的なコメントに感謝しております。

まつさん、コメントありがとうございます。
まつさんが提起された問題へのこたえにはなっていないかもしれませんが、私なりのこたえ、別記事としてアップ致しました。
それと、ゲイの問題ですが、私は、この作品はゲイの実態を知って貰うためにつくられた作品ではないと思いますし、この作品におけるゲイの描き方になんの違和感も感じません。
ただ、この作品が制作され公開された段階で、この作品はゲイについて映画だというようなミスリードがあったために、ゲイ映画だと思い込んで作品に接した人から批判の声が起こってきたのではないでしょうか。
  1. 2005/10/23(日) 14:11:31 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

TBありがとうございました

すっごく楽しく読ませていただきました。
私はまだ1回しか観ていないためか、まだまだ気づいていない部分があったんだなと感じました☆

リアリティのことが出されていますが、確かに私の知人のゲイの方周辺にも、この映画の評判はよくないみたいです。また、私にはそこらへんのことはよくわかりません。
しかし、私はこの映画にとてもリアリティを感じました。私が感じたその部分というのは、人間の行動です。映画やドラマだと、やはり作り物的なことを感じる部分があると思うんです。例えば、沙織の「触りたくないんでしょ」のシーン。普通だと、この後に何かしら晴彦の言葉を入れようとすると思うんです。でも、実際の私達の生活には、何も言葉が出ないとか、沈黙とか、何か上手く言葉を言えないとか、そういうことが多々あるように思うんです。だから、そういうときにすごくうまい言葉をもってくる映画やドラマは、そういった視点からするととても作り物に見えてしまうんです。
犬童監督には、そういった言葉も含めて人間の行動に対してリアリティを感じました☆

もう少しで終わってしまうみたいなので、また観てみようと思います!!それから、十一面観音も機会があったら見てみます!!
  1. 2005/10/29(土) 02:17:37 |
  2. URL |
  3. おかみ #-
  4. [ 編集]

それから・・・

2個も書いてしまってすみません(><)

「母が歌え給いし歌」の意味。
とてもいい詩だなと思ったのですが、この歌と映画との直接的な関係までは結びついていませんでした。なので lunatique さんの書かれていたものを読んで、すっっっっっっっっごく納得しました☆
その点も踏まえて、また観てみます!!
  1. 2005/10/29(土) 02:25:49 |
  2. URL |
  3. おかみ #-
  4. [ 編集]

様になる映画

おかみさん、コメント&TBありがとうございます。
『メゾン・ド・ヒミコ』は、沈黙や間(ま)のとり方がすばらしい映画でしたね。あかみさんは音楽をやっておられるから、そうした沈黙や間の美しさを強く感じることができたのではないでしょうか。
音楽の美、私は結局フォルムにしかないような気がしますが、そういう意味では、『メゾン・ド・ヒミコ』は、とても「様になる」映画だと思います。
また、この映画における「母が歌え給いし歌」の使われ方についての私の考え、あくまで私的解釈にすぎませんが、納得していただけたようでうれしいです。
  1. 2005/10/30(日) 09:08:34 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

僕の疑問に対する一つの解

こちらにもTBいただきありがとうございました。
こちらの文章を読んで、僕がこの映画を観て疑問に思っていたことの一つの解を見せていただいたような気がします。序盤の時点で「沙織は卑弥呼を許していた」のあたりは、今にして思うと、そうだったんだなと思います。なんとなく感じていた部分を文章にして分かりやすく理解させていただいた気がします。
沙織が専務に抱かれて涙する。ここで初めて母親の気持ちが全て理解できた。納得できる解釈ですね。そうか、深いですね。。
  1. 2005/11/04(金) 00:28:03 |
  2. URL |
  3. gopats #-
  4. [ 編集]

さまざまの解

『メゾン・ド・ヒミコ』のなかのさまざまなシーンに絶対の解はないと思います。
映画を観たさまざまな人がそれぞれに受けとめる、それでいいのではないでしょうか。
そうしたなかで、私の解がgopatsさんがご自身にとっての解を導き出すための多少のヒントとしてお役にたったというのであれば、私としてもとてもうれしいです。
  1. 2005/11/05(土) 00:59:20 |
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  3. lunatique #tmBa20pk
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いろんな解釈

メゾン・ド・ヒミコに限らず、様々な解釈でできるような映画はあると思います。そんな映画を観て、自分の感想と他の人の感想を語り合ったりして、その映画の世界を膨らませていければそれはとても素晴らしいことのように思います。もちろん解は一つではないと僕も思います。今回のメゾン・ド・ヒミコという映画では、lunatigueさんの感想を読むことで、映画の世界が広がったように思えました。
  1. 2005/11/06(日) 17:59:26 |
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  3. gopats #-
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はじめまして

はじめまして。またきますね。
  1. 2008/11/25(火) 19:52:28 |
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  3. サキ #-
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再び『メゾン・ド・ヒミコ』を観る

注: 二度目の鑑賞ということで好きなことを書いているので、未見の方はお読みにならないでくださいませ。
  1. 2005/10/14(金) 19:21:15 |
  2. あいりのCinema cafe

メゾン・ド・ヒミコで未知との遭遇009●父のような、母のような・・・

21年ぶりの再会には、二人きりのシチュエーションが用意されました。春彦の案内で卑弥呼の部屋に案内される沙織。しかし卑弥呼は見当たりません。「ちょっと待ってて・・・」春彦は部屋を出て行きます。(↑せっかくの親子の再会は当事者2人であるべきだという、シナリオラ
  1. 2005/10/14(金) 23:01:15 |
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メゾン・ド・ヒミコ

メゾン・ド・ヒミコ (2005)日本 ★★★★ ■監督 犬童一心 ■Cast 柴咲コウ オダギリジョー 田中泯[澤寅右衛門 <あらすじ>  塗装会社の事務員をする沙織の下に、父の?人と名乗る若い青年が現れる。彼は沙織に、ガンを患い死にかけている沙織の父に会って欲し
  1. 2005/10/14(金) 23:51:26 |
  2. BE HAPPY blog

まだまだ余韻が 「メドン・ド・ヒミコ」追記

観てから一週間たっても まだこの映画のシーンや台詞を思い出して切なくなっています。いろんな方の感想やコメントを読ませていただいているうちに書き足りなかったことを もうちょっと書きたくなったので感想のパート2を書いてみることに。(この映画は、大島弓子さんの
  1. 2005/10/15(土) 10:03:37 |
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メゾン・ド・ヒミコ

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第221回★★★(劇場)(核心に触れる文面あるので、ご注意あそばせ) 数年前、仕事上で知り合った方が転居されることになった。 転居先を聞くと、こんなことを言っていた。「岡山の山間部にね、夜の商売を引退した人たちで作った住宅地があるの」...
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