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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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タックスノットで『メゾン・ド・ヒミコ』について激論!

昨日(16日)は、例によって遅めに起きてブランチを食べてから、コインランドリーで読書&洗濯。今読んでいる本は『中世ヨーロッパの身分制議会』(A・R・マイヤーズ著、宮島直機訳、刀水書房、1996年)。近代議会の原形となる身分制議会がヨーロッパという特異な地域でどのようにして生まれたのか等を記した本だが、王権論を逆から述べているようでおもしろい(多くの場合、身分制議会は王権を制限する方向にはたらく)。
夕方、まず渋谷に出て、シネマライズで明日(18日)の『メゾン・ド・ヒミコ』トークショー(犬童一心&田中泯)のチケットを予約。トークショーを開催することがまだ一般に広がっていないのか、私が行った時点では、18日19:10の回はそれほど予約が入っておらず、まんなかのいい席を押さえることができた。ちなみに、『メゾン・ド・ヒミコ』はいつ行ってもこんでいるので、劇場のまんなかの席でみるのはこれが初体験だ。G列6番という席をとったので、明日、髭をはやしたださい中年男をみかけた方はよろしく(^_^)。
その後、西武百貨店の裏にある画廊、美蕾樹(ミラージュ、宇田川町17-1、TEL=03-3463-8477)に立ち寄った。たまたまアスベスト館にゆかりの写真家、ダイトウノウケンさんが土方巽夫人、元藤あき子さんにちなむ写真展を開いており、土方さんや元藤さんと一緒に踊っていた人などが思い出話をしていたので、しばらくの間、その話に聞き入った。
美蕾樹のあとは新宿に移動。まずは伊勢丹でジャケットをみる。伊勢丹からきたダイレクト・メールにちょっと気になるジャケットが載っていたので、それをチェックするためにバーバリーの売り場に直行。めざすジャケットが店頭にならんでいないので店員さんにきいてみると、そのジャケットは11月発売なのでまだ並べていないとのことだったが、サンプルがあるというのでそれをみせて貰った。ただ、実物は写真のイメージとちょっと違っていたので(それにサイズが合わない)、今回は見送りということにした。そのあとは、地下で翌日用の食材を買い込み、買い物が終わってから、伊勢丹の食堂街で簡単に夕食。
腹ごしらえもすみ、9時ごろ、伊勢丹裏の新宿三丁目にあるゲイバー「タックスノット」に向かう。タックスノットのマスター大塚隆史(タック)さんは、ゲイのオピニオン・リーダー的存在で、私は、タックスノットが開店した当初から、もう20年以上のつきあいになる。自分自身がアーチストでもあるタックさんは、さまざまな芸術活動についてゲイとして一家言もっており、『メゾン・ド・ヒミコ』にも、制作段階からいろいろかかわったという。
そのタックさんは、実は『メゾン・ド・ヒミコ』に対する最も強硬な反対派の一人であり、この映画の最も熱狂的な支持者の一人であることを自認する私が彼と話をするとシチュエーションは、第三者的にみれば、非常に奇妙なものにうつるだろうと、おもしろかった。ただし、この映画に対するタックさんの意見はすでにきいていたし、それに対する私の意見もすでに述べているので、互いに相手を説得しようと激論するのではなく、昨日は、互いの立場を再確認した感じだ(タックさんは制作行為論として『メゾン・ド・ヒミコ』を論じ、私は作品論として論じようとするので、論点がかみあわず、議論は完全な平行線になる)。
ただ、ネットなどに流れているタックさんの考えと、タックスノットで直接きくタックさんの考えは微妙に異なっており、タックさんの考え方は誤解されて伝わっている部分があるのではないかと彼に直接指摘した。このブログで、彼の意見を私なりに要約してみたいとも思うのだが、それがまた誤解を生むのは不本意なので、ここでは要約を行わない。関心のある方は、直接、タックスノットで確認されることをおすすめする。
で、私の方も、『メゾン・ド・ヒミコ』を三度みて、この映画についての私の考え方が最初とはだいぶ違ってきているということを彼に話した。つまり、私の考えは、はじめ、この映画はゲイ映画ではない(それ故、この映画にゲイ映画であることを期待してみにいって、ゲイ的なものがないことを批判するのはおかしいのではないか)というものだったのだが、今は、『メゾン・ド・ヒミコ』は、もしかするとその本質的部分においてゲイ映画なのではないかと考えている。
これに対して、タックさんからは、「じゃあ、あなたの考えるゲイ映画ってなに?」という鋭い質問が返され、こたえにつまった私は、それを宿題にさせてもらった。
こうして議論が煮つまったところへタイミング良く、『メゾン・ド・ヒミコ』で山崎を演じていた青山吉良さんが来店。犬童一心論など、具体的な方向で、話がまた盛り上がった。ちなみに、タックさんと私は、犬童監督の前作『ジョゼと虎と魚たち』を評価しないということで、意見が一致した。
こうして『メゾン・ド・ヒミコ』の話題にどっぷりつかっているうちに終電の時間となり、後ろ髪をひかれながらも、タックスノットを出て帰宅した。
ちなみに、青山さんは、毎週月曜日タックスノットに入っており、月曜日にタックスノットに行けば、いつでも青山さんに会うことができる(月曜日はタックさんはお休み)。タックさんも青山さんも『メゾン・ド・ヒミコ』をみて、いろいろなことを話したいという人が来店するのは、男女を問わず大歓迎という。
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テーマ:雑記 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2005/10/17(月) 12:19:57|
  2. 身辺雑記
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:7
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コメント

安心して議論をできる相手/お仲間がおられるというのはいいですね。特に自分が情熱を持って話せることが出来る相手がおられるのは。それが出来る場があるのも。結構色々な意見が飛び交っているのですね。それだけでも作品の奥深さが伝わってくる感じがします。
  1. 2005/10/19(水) 18:29:27 |
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  3. flowfree #-
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ゲイの自己表現

タックさんとは、この映画についての評価が両極端にぶれているので、おもしろいのです。
で、彼の場合は、ふだんから、「ゲイの自己表現」ということに重きをおいて映画やいろいろなアートに接していると思うんです。つまり、作品のできばえを問題にする前に、ゲイは外にむかって自己を表現していくべきだと考えている。彼のそうした真摯に態度はとてもよく分かるのです。ですから、この映画の場合、ゲイではない人がゲイをとりあげるということでとまどっておられるのではないかと勝手に想像しています。
私がアートに接する場合、どうしても「はじめに作品ありき」になってしまうのですね。それがゲイ・アートじゃなくてもかまわない。逆に、ゲイの自己表現というのも、自己表現したからいいというのではなく、ある完成度が必要ではないかと思うのです。
だから二人の間では、結局、「では、ゲイ映画(ゲイの自己表現)とは何?」ということがすごく大きな問題になってしまうのですが、正直なところ、私は「ゲイ映画だから」という関心で映画をみたことがないので、この一見単純なこの質問に、うまくこたえられないのです。
あれからずっと考えて、私にとってこれがゲイ映画だといえるのは、パゾリーニの『アポロンの地獄』ぐらいしか思い浮かびません。でも、普通に考えたら『アポロンの地獄』はゲイ映画の範疇にははいらないんでしょうね(笑)。
  1. 2005/10/20(木) 01:53:53 |
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  3. lunatique #tmBa20pk
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なるほど。目的を持って映画を見られるとまた違った感想になるでしょうね。”ゲイ映画”というジャンルも一概には言えない感じですね。
自分でちょっと思ったのは”ゲイ(クイア)によるゲイ(クイア)のための映画”です。クイアの作品を作る方で作品自体を必ずクイアに関わる物に限定する方結構おられるようで。まあ単に一つの例でして、他にも色々な”クイア映画”の意味するものあると思います。結局は作品内容なんでしょうね。内容的にクイア観念/概念を真剣に取り扱ってクイアのオーディエンスに限らず異性愛者のオーディエンスをも考えさせる作品、など。
メゾン・ド・ヒミコはまさにそれを果たしているように見られますが・・・
ところでコメント残して頂けるよう設定しましたのでよろしくお願いします。それでもメールの方がよろしければコメント欄で(鍵/秘密チェックでもして頂いて)教えて下さい。設定します。
  1. 2005/10/20(木) 03:17:45 |
  2. URL |
  3. flowfree #-
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『メゾン・ド・ヒミコ』のリアリティー

貴ブログへのコメントについての配慮、ありがとうございます。
ところで、まず「作品」であるということから『メゾン・ド・ヒミコ』にはいるという私の立場、まだ充分に言い尽くせていないように思います。
実は私は、この作品の最も大きなテーマは、人間関係にはなくて、リアリティー論だと思うのですね。映画的リアリティーとはなにか、そしてそれをどのように映画に定着させるか、という。この映画のなかで、私にとって最もスリリングで、何度みてもゾクゾクっとするというのは、ほんとうは、このリアリティー論の部分なのです。
すると、作品論からはいるという私の立場は、私なりに考える制作行為論としてのタックさんの立場とオーバーラップしてくるのです。
ですから、犬童監督の前作『ジョゼと虎と魚たち』に対する私たちの評価は一致する。『ジョゼと虎と魚たち』は身障者とのコミュニケーションがテーマなわけですが、このテーマもやはり、リアルに描けば描くほど虚になるという矛盾を抱えている。これは、タックさんの立場からも私の立場からも受け入れられないのです。
一般的な評価としては、『ジョゼと虎と魚たち』は辛口の映画、『メゾン・ド・ヒミコ』は甘口の映画ということになっているようですが、私からすればこの評価は逆にしなくてはいけないのであり、『ジョゼと虎と魚たち』は、とても甘口に感じられて、その甘口の部分が好きではありません。で、私は、犬童監督は、『メゾン・ド・ヒミコ』で、その語り口(方法論)をまったくかえてしまったのだと思います。
田中泯さん、常識的に考えればゲイバーのママというイメージからは一番遠い人で、しかも普通の意味での演技者ではありませんから、言ってみれば、「演じる」ということは最初から封じられている。この泯さんを起用して、犬童監督は、ゲイバーのママの役になろうとする泯さんを「ただ記録する」わけです。この映画のリアリティーは、そこに生じてくるのだと思います。
何度も書いているように、これはゲイとしてのリアリティーとはまったく違います。むしろ、ゲイが違和感を感じるというところにこそ、この映画のリアリティーがあるわけです。
  1. 2005/10/20(木) 09:06:06 |
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  3. lunatique #tmBa20pk
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  1. 2005/10/21(金) 13:11:05 |
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  1. 2005/10/21(金) 13:34:00 |
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deconstruction

秘密のコメンターさん、コメント×2、どうもありがとうございます。このコメントが残されていたこと、今朝になって気づきました。
さて、ご指摘の点に関して今私が考えているのは、ジャック・デリダの思想およびエクリチュール論のことなのです(この点については、また別に新しい記事を書いてみようと思います)。
デリダのエクリチュール論なり、それを具体化していく方法、たとえばdeconstruction(脱構築)ということ、頭の中ではわかったつもりになっていましたが、『メゾン・ド・ヒミコ』についていろいろ書きながら、そのことのほんとうの意味、やっとわかったような気がしています。
とりあえず、今はその点だけRESしておきます。
言葉足らずの点は、のちほどなんらかのかたちで補足したいと思います。
  1. 2005/10/22(土) 10:24:43 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
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