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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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differanceーー『メゾン・ド・ヒミコ』を観てデリダについて考える

『メゾン・ド・ヒミコ』についていろいろ言葉を書き連ねながら、今、私はことし亡くなったフランスの哲学者ジャック・デリダの言説戦略について思いをはせている。
 フランス現代思想の旗手としてフーコーとならび称されてはいるが、デリダの言説戦略はフーコーのそれとは大きく異なる。難解といわれているにしても、フーコーの言説戦略が少なくとも表層的には直叙的であるのに対し、デリダは、「デリダ語」といわれる独自の用語を次々に生み出し、通常の意味におけるテクストの理解を拒み続けてきた。
 そうしたデリダの発想を象徴する言葉の一つにdifferanceという言葉があるのだが、この言葉、フランス語以外の言葉にはちょっと置き換え(翻訳し)ようがない。
 differanceという言葉は、直接的には動詞differerを名詞化したもので、differerには「延期する(ずらす)」、「~を異にする(区別する、差をつける)」という二つの系統の意味があり、differanceは「ずらすこと」と「区別すること・差異」の二つの意味を同時にもつ。ただし、この後者の意味に関しては、通常のフランス語にdifference(英語のdifferenceにほぼ同じ)という言葉があり、デリダはこのdifferenceとデリダが考える「ズレ=差異」の違いを明示するために、そのテクストのなかで、ことさら自己の造語であるdifferanceを強調する。
 ところでおもしろいことに(これはデリダの意図的な戦略であるのだが)、フランス語として発音するとdifferenceとdifferanceにはなんのズレも違いもなく、どちらも同じように「ディフェランス」となってしまう。つまり、デリダのいうdifferanceというのは違いなき違いでもあるのだ。
 さて前おきはこのくらいにして、デリダ論にはいることにしよう。とはいえ、これは『存在論的、郵便的――ジャック・デリダについて』(新潮社、1998年)なかで展開される東浩紀のデリダ論の私的要約でしかないのだが…。

    *    *    *

 さて、『存在論的、郵便的』のなかで、デリダおよび著者の東浩紀が批判するのは、エクリチュール(書く行為)はパロール(声ー意識)をなぞっているという古典的な考え方ではないかと思われる。したがって、デリダは原エクリチュールという概念をもちだして、これをパロールに先行させるが、実際のところ、この「原エクリチュール」という概念は非常にわかりにくい。ただし、パロールを単なるフォネー(音/声)の現象とするのではなく、そこに声と一体化した「意識」をもからめて考えるのだとすると、話は少しわかりやすくなる。つまり、原エクリチュールとは原意識ではないかと。
 ただこのとき、デリダは個人を個人たらしめる意識の原点(オリジン)に遡行しようとするのではなく、ここで無意識の問題をからめてくる。つまり個人の意識というのは他者の転移であって、内なる原点は存在しないと(=つねにすでに)。
 おもしろいことに言語がこれと関係してくるわけで、言語は個人以前から存在し、本来的に個人の「外」のものであるから(ex-、aus-)、言語を使ってなにかを表現するという行為にオリジナリティは存せず、エクリチュールはいわば無限の転移の繰り返しなのだという発想が、デリダにはあると思う。
 こうして考えてくると、東が、哲学者は郵便局で、偉大な哲学者とは大きな郵便局だと主張するのも理解できる。つまり彼らはオリジナルを創出するのではなく、ひたすら言語を通過させる。
 こうして、言葉と意識をネットワークの問題として同じ土俵にあげる土台ができあがるわけだが、そうして言語を大量に通過させるときに、どこかでしばしば配達ミスや差し戻しなどがおこる。この配達ミスこそ、言語流通(郵便ネットワーク)のポジティブな面からは見えてこない<オリジナル>だとデリダは考えていたというのが、本書(『存在論的、郵便的』)全体を通じた東の結論のひとつではないか。
 また実際、deconstruction、differance、grammatologie、responsabiliteをはじめとするデリダの術語は、読む人の誤配を誘うようにできてもいる(ちなみに、デリダ的に用いられるresponsabiliteは、ネット関係者にはとりわけ興味深い概念というべきであろう。デリダ的に考えると、この言葉は「res可能性(response-abilite)」であると同時に「責任をもつ」ということである)。
 さて、以上の整理によって、「デリダはなぜあのようなテクスト形体を選ぶのか」という、『存在論的、郵便的』のなかで東が初期に設定した疑問は、ある回答に達したことになるのではないか?
 デリダの「エクリチュール」という概念は、人間意識を写しとったものでもなければ、書かれた言語でもない。言語の習得に先立つ「社会関係」こそがデリダのいう「エクリチュール」であって、この術語を用いることによって、デリダは「人は社会のなかに書きこまれてる」ということを示そうとしているのではないか。この辺、デリダは「世界内存在」という術語を提唱して人間とは本来的に社会的存在であることを示そうとしたハイデガーの戦略をしっかり継承していると思う。
 また発達心理学との違いでいえば、言語なり社会関係を習得していくことをデリダは自己形成とはみずに、フロイト的な「転移」つまり他己形成とみているのではないか。

 議論が過度に抽象的にならないよう、『存在論的、郵便的』のなかの東の文章も引用しておこう。
 「70年代初期のデリダは一般に、位置ずらしの局面における戦略、つまり転倒の「終わりなさ」が要請する転移的技法を「古名paleonymie」の戦略と名付けている。それはどのようなものか。例えばデリダは、「エクリチュール」という語を導入する。しかしその語は実は、もはや既存の哲学的二項対立、パロール/エクリチュール(話されたもの/書かれたもの)の対立に従わないものを指示するために用いられている。つまりここでデリダは、二項対立の外部を示すため、まさにその二項対立の内部に位置する古い名を維持し続けている。そしてそのような捻れは、脱構築のこの局面が転移的であるため生じる。そこではあらゆる語が「脱構築されるシステムの内側と外側」、つまり分析者と被分析者とに「二重に記載され」、「いかなる概念、いかなる名、いかなるシニフィアンもこの構造を逃れることはできない」。それゆえ「単一の著者により署名された操作は、定義上この隔たり[=古名の戦略]を実践することができない」。分析者デリダは、新しい事態を引き起こすため、被分析者の用いた古い語を再応用するしかない。」(上掲書、297~8ページ)
 やや難解な文章だが、東のこたえは引用したテクストの冒頭に記されている。たとえばデリダが「エクリチュール」という言葉を用いるのは、「エクリチュール」ではないなにものかをを示すためなのだ(そしてその「エクリチュール」ではないなにものかは、「エクリチュール」という言葉によってしか示しようがない!)。

 デリダは、自己の思想を「正確に」伝えるためではなく、読む人に配達ミスや差し戻し、あるいはズレを生じさせるためにその著作を書き続けた。こうしたデリダの著作がもつdifferanceの構造や方法論は、『メゾン・ド・ヒミコ』という作品の構造に、そしてそのなかに登場する人物の行動に幾分似てないといえないこともない。
 いやそれ以上に、『メゾン・ド・ヒミコ』について語るには、デリダが生み出したような柔軟な言葉を用いなくてはならない。自戒の意味をこめてそう思った。
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テーマ:不連続的差異論 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2005/10/22(土) 18:52:55|
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