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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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『メゾン・ド・ヒミコ』における現実と虚ーーまつさんにインスパイアされながら:その1

まつさん、私のブログの『メゾン・ド・ヒミコ』関係の記事へのコメントおよびTBありがとうございます。『メゾン・ド・ヒミコ』のこと、誉め合ってばかりいてもしかたがないのじゃないかと思っていたところですので、コメント感謝しております。ただし、まつさんの書かれた記事およびコメントへのお返事、小さいスペースではとても対応しきれない(irresponsable)と判断しましたので、こちらに新たな記事をたてて、じっくりお返事させていただくことにしました。
誤解なきようあらかじめ記しておきますと、私はこの記事によってまつさんを説得しようとか、これによって二人が『メゾン・ド・ヒミコ』についての共通の了解に達するであろうといった安易なことは考えていません。なんというか、これは、『メゾン・ド・ヒミコ』について私がこれまで考えてきたことの自己確認のような内容になるのではないかと思っています。ですから、この書き込みがまつさんにとってはなんの説得力もなく、私の記事がもう一度私に向かって「差し戻される」だけとしても、それはそれでやむをえないことだとも思っています。

さて、『メゾン・ド・ヒミコ』は、これだけは誰もが認めるように、非常に複雑なテーマをごった煮のようにつめこんだ作品ですから、私が書いたものも含めて、この作品についての感想やコメントの多くは、その複雑なテーマを整理しようという方向にあるように思います。
ところで、まつさんの記事が私にとって重要なのは、『メゾン・ド・ヒミコ』が抱える複雑な問題をこの作品のなかだけで整理してしまうのではなく、『金髪の草原』『ジョゼと虎と魚たち』『死に花』(この作品、私は未見)というトータルのなかでとらえようとしておられる点で、私も『メゾンドヒミコ』は、他の犬童作品、特に『金髪の草原』とあわせて考察した方がよく理解できるのではないかと思っています。
ということで、まつさんの記事のなかから、それに関係する箇所、引用させていただきます。

「これまでも犬童監督は「金髪の草原」(1999)や「死に花」(2004)でも老人を扱ってきたが、そこにはファンタジー的な現実を超越した「悪意」があった。それは「金髪の草原」での若返りや「死に花」での強盗など「到底無理」なことをやってのけることに対するシニカルな視点だ。
このシニカルな視点は現代社会で同じ「マイノリティ」という意味合いを持つ障害者を主人公にした「ジョゼと虎と魚たち」(2003)にも現れている。
つまり犬童作品に登場する「マイノリティ」たちは、魅力的に描かれているのだが、現実的ではないという共通点を持つ。ここに「愛情」はなく、「悪意」によって引き出される悲劇が観客の琴線を「揺らしている」に過ぎない。
よって、この作品を「ファンタジー」として捉えないと、なかなか共感は出来ないだろう。
それは登場人物が綺麗事ばかり楽しそうに語り、現実問題に直面すると目を背けているからにほかならない。」

このなかで、「犬童作品に登場するマイノリティたちは、…現実的ではない」というのは、私にとってもとても重要な指摘なのですが、この「現実的・現実的ではない」つまり、「現実的とは何か」という問題、私は犬童作品の核をなす重要なテーマだと思っています。
つまり、私は犬童監督の「戦略」がもっとも解りやすいかたちで表現されている作品は『金髪の草原』ではないかと思うのですが、ここでは、観客は、映画のなかで起こっていること(映画が直接的に描いていること)が「現実」だと思う余地はまったくないわけです。そのうえで、この作品は、観客に向かって、「あなたはここで描かれていることを非現実だと思いますか」と問いかけてくる。おそらく、まつさんはその問いかけを「悪意」ととらえておられるのだと思いますが(そしてそのことを「ファンタジー的な現実」という言葉で表現しておられるのだと思いますが)、私は逆に、その問いかけに犬童監督のロマンを感じるのです。
仮に犬童監督がある悪意をもって『金髪の草原』をつくったのであれば、ラストシーン、主人公に老けたメークをさせるなり、老けた役者に代えるなりの、いわゆる「虚」を「現実」に転換する別の表現が可能だったのではないでしょうか。そうではなくて主人公を若いまま飛ばせたということに、この一見虚にみえるものこそが現実であり、われわれが日常現実と思い込んでいるものは実は「虚」にすぎないという犬童監督のメッセージがこめられていると私は感じました。
『ジョゼと虎と魚たち』は、そうした現実と虚の問題を、『金髪の草原』のように明確に虚とわかるものと現実を対比させて描くのではなく、いわゆる現実のなかに虚を求めた実験作と私はとらえています。
この点、まつさんには私のつたないデリダ論をお読みいただいているので、あえてそれとからめながら書きますと、『ジョゼと虎と魚たち』と『メゾン・ド・ヒミコ』は、現実と虚という問題を二項対立的にとらえるのではなく、最初に一般的に誰にでも認められる「現実」を強く打ち出しておいて、そこから「虚(真の現実)」を紡ぎ出すという、手のこんだ手法を採用しているのではないでしょうか。つまり、この二作、とりわけ『メゾン・ド・ヒミコ』では、「現実/虚」という「既存の二項対立に従わないものを指示するために」<現実>が用いられているのであり、「二項対立の外部を示すため、まさにその二項対立の内部に位置する古い名」すなわち<現実>を維持し続けているように、私には思われるのです。ですから、『金髪の草原』では、直接的に描かれているのは現実か虚かという問題はほとんど生じないのに、『メゾン・ド・ヒミコ』は、画面で展開していることが現実か虚かということが、大きな論争になってしまうのですね。
以上のような考え方からして、私は、『メゾン・ド・ヒミコ』は「現実問題に直面すると目を背けている」作品ではなく、「現実の虚構性を暴こうとした」作品だととらえています。
「老い」の問題、「ゲイ」の問題からこの作品を語ることも可能でしょうが、この作品にとって、それは副次的な問題であると私は考えます。つまり、同じ素材を社会問題として扱うことも可能でしょうが、犬童監督は、「リアルとは何か、そのリアルは作品のなかでどのように表現されるのか」ということをまず問題にしているのではないでしょうか。

(個々のシーンの解釈の問題につきましては、私として充分に書いたつもりですので、それに関する問題は、この記事ではすべて省略させていただきました。また、犬童作品における「フェチなエロス」の問題は、これはこれで大きな問題ですので、それは別記事で取り上げさせていただきたく存じます。)
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テーマ:映画 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2005/10/23(日) 14:01:37|
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