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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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『メゾン・ド・ヒミコ』におけるシュールレアリスムーーまつさんにインスパイアされながら:その2

犬童映画におけるフェティシズムの問題ですが、私はこの点に、ルイス・ブニュエルと同じような問題関心をみます(ちなみに、私がもっとも尊敬する映画作家はブニュエルです)。ただこの点は、私のなかでもまだうまくまとまっておりませんので、この書き込み、単なる事実の列記といった感じの雑駁なものとなってしまうかと思いますが、お許し下さい。

さて、『メゾン・ド・ヒミコ』をみたときに、この作品のタッチとの類似ということで最初に思い浮かんだのが実はブニュエルであり、シュールレアリスムということなのですが、ブニュエルとの対比や『メゾン・ド・ヒミコ』におけるシュールレアリスムに言及すること、私はこれまで意図的にさけてきました。それがなぜかというと、『メゾン・ド・ヒミコ』、さらには『金髪の草原』をシュールレアリスム作品として分類していまうことは、そうした分類を読んだ人が、これらの映画を作品に即して考えるということをやめてしまうかもしれないとおそれたからです。
実際のところ、犬童作品をシュールレアリスムと規定してしまえば、話は非常に単純なわけで、「あ、シュールだからなんでもありなのね」で済んでしまうわけです。私としては話をそう簡単に済ませたくはない。そこで、犬童作品の表現論というものを、これまで、作品に即していろいろ書き連ねてきたわけです。
また犬童作品に対する批判の多くも、私からすると、それとは意識せずに犬童作品のシュールレアリスム的な方法論を批判したものが多いように思われます。私としては、映画の方法論というのは、たくさんあっていいのではないかと思いますから、直接的なリアリズムを求める作品もあれば、そうでない作品もありうるのであって、この点からすると、『金髪の草原』や『メゾン・ド・ヒミコ』は直接的なリアリズムを求めない作品であるというだけで、それは作品の欠陥でもなんでもないと思うのです(リアリズムをめざした作品が結果としてリアルなものにならなかったとしたら、その作品は批判されるべきでしょうけれど)。
私は、批判派を含めて、『メゾン・ド・ヒミコ』を観た多くの人と話をしましたが、それからすると、これはどういうシーンか、このシーンで何が起こっているのかということに関して、個々のシーンの直接的な意味をめぐる見解の食い違いというのはほとんどないのです。ところが、個々のシーンをよりトータルに意味づけしようとするときにさまざまな食い違いが生じ、平行論になってしまう(たとえば、沙織と春彦がデキタかどうかということに関して、映画の描写に曖昧な点はなにもないわけです。ところがそのシーンを意味づけしようとしたときに、「ありうる」とか「ありえない」とかもめるわけです。ダンスホールのシーンもそうですね)。ですからこれは、映画のつくり方が稚拙で、個々のシーンの意味が曖昧だから観た人の意見がわかれるのではなく、それ自体は明確なシーンをみて、鑑賞した人間が総合判断を行おうとするときに生じる見解の相違なのであり、作者によって予期されていた効果なのだと思います。

さてフェティッシュの問題ですが、ある意味でブニュエルほど部分的なものに対する欲望にこだわりつづけた映像作家はめずらしいのではないでしょうか。それと『ビリディアナ』にみられるように、ブニュエルには身体障害者に対する、やはりフェティッシュとしかいいようがない関心がありますね。これも身体の部分に対する欲望と関連していると思います。『哀しみのトリスターナ』のなかの、足を切断したトリスターナの裸身に対するこだわりなどは、そうしたフェティシズムと身体障害へのこだわりが結びついたものといえるかもしれません。犬童一心の場合も、ブニュエルほど明確ではありませんが、そうしたフェティッシュな関心が強く、またそれを意識的に表現しているのはまつさんのご指摘の通りだと思います。
そこで次に、ブニュエルや犬童一心がそうしたこだわりをもつのはなぜかということを考えてみると、結局、シュールレアリストは、潜在意識や一個の人格のなかの他者からの転移(他己形成)を重視し、自律的な人間心理や、普通の意味における行動の動機というものには興味をもっていませんから、人間の行動が表層的にはバラバラのものとして描かれることになり、それを普通に言えば、フェティシュな関心だけで動いているようにみえるということになるのだと思います。いやもしかすると、シュールレアリストは、人間はフェティッシュな関心しかもたないと言っているのかもしれません。いずれにしても、身体やモノに対する部分的な関心(欲望)と、人間の心理や人格性を認めないということは、シュールレアリスムにおいては、表裏一体のものとして結びついているといえると思います。
まつさんが書いておられる、
「彼(犬童)の作品には「食事」場面が必ず登場する。「食」=「セックス」を想起させるように、「旺盛な食欲」=「欲望」という図式が見え隠れする。
春彦が「欲望なんだよ」と告白するように、彼らを結びつけるものは「愛」ではないと言及している。これまでの作品群においても「食」は「欲望」であり、結果「食」に魅せられると破局を迎えていることが判るだろう」
という点は、ブニュエル映画にもそのままあてはまるものであり、たとえば、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』という作品は、そうした食欲と性欲だけを主題とした作品といえますね。
犬童監督は、次は暴力を題材とした映画を撮りたいといっているようですが、この暴力というのも、私からすると欲望、それも潜在的な欲望と結びついた自己コントロールできないものということで、非常にシュールレアリスティックな主題だと思います。

いずれにしても、まつさんが指摘しておられるフェティッシュということは、犬童作品を解くための大きな鍵だとは思いますが、私としては、「犬童一心はシュールレアリストだからその作品はフェティッシュなんだ」と断定的には語りたくないのです。そういう風に紋切り型にとらえるのではなく、ある映像作家がフェティッシュな関心をもつというのはどういうことなのかを、犬童作品をきっかけにしてじっくり考えてみたいと思っています。

(この記事を書きながら、私は、自分がなぜ『メゾン・ド・ヒミコ』の登場人物たちの行動をその潜在意識のレベルでとらえたくなるのか、少しみえてきました。)
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テーマ:心理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2005/10/23(日) 23:17:51|
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『小間使いの日記』のフェティシズム

ブニュエルとフェティシズムに関しては、たとえば次のサイト↓の『小間使いの日記』評をご参照を。
http://cinema-today.net/0404/26p.html
  1. 2005/10/24(月) 01:18:37 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

ご丁寧なコメントに引き続き、このような記事まで書いていただき光栄です。かなり圧倒されました。
私は追記事というのを別のアングルでない限りほとんど書かない主義なので、「メゾン・ド・ヒミコ」についてこれ以上書くことはないと思うので、言い訳だけ。
lunatique様が書かれていることは、実は私が書こうとしていることとほぼ同じことなんですが、マイブログは言葉足らずのところがありまして、例えば「悪意」という言葉は「いじわる」と解していただければ判りやすいかと思います。
また「フェチ」も「シュール」までいかないので「すけべ」と解していただけたら、と。「エロ」ではないですから。この点も「いじわる」と解せるようにも思えます。
とにかくこれだけの時間を費やしてお答えいただき恐縮です。このような短いコメントで申し訳ないですが、既読の足跡を残しておきます。
ありがとうございました。
  1. 2005/10/24(月) 20:10:29 |
  2. URL |
  3. まつさん #-
  4. [ 編集]

共通了解に達することの困難さ

まつさん、コメントありがとうございます。「追記事というのを別のアングルでない限りほとんど書かない」というまつさんの主義は尊重させていただきます。
この映画、実際のところ、いいという人と話すのも、ダメという人と話すのも、とても難しいのですね。なんというか、作品についての「共通了解」に達することができないような構造になっている。ダメという人は、まずそういう構造がダメというんじゃないかと思うんですが、実は私は、この作品に描かれた人間関係よりも、この作品のもつズレの構造が好き、あるいは尊重したいと思っているのですね(いや、「尊重したい」とった上品なものではなくて、やはり生理的に好きなんですね。ややこしくてごめんなさい<笑>)。
まあ、「共通了解に達する困難さ」ということでは、肯定派のあいだでも同じような感じで、この映画に関しては「いいんだけどどこがいいんだかわからない」、「感動したけどなぜかわからない」という感想が多いのではないでしょうか。
私は、観客が作品についてそうした印象をもつということは、作品のメッセージがみごとに「誤配された」ということであり、この作品にとってはそれが成功なんだと思っています。
まつさんにコメントいただいて、『メゾン・ド・ヒミコ』について、自分なりにもっといろいろなことを書いていきたい(誤配や差し戻しを増やしていきたい)という意欲がわいてきましたから、またどうぞよろしく。

(一連の記事、まつさん以外の方のコメントも大歓迎ですので、遠慮なくどうぞ!)
  1. 2005/10/25(火) 14:25:17 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

lunatiqueさん、犬堂監督に「いぬのえいが」を観てください。TBさせていただきます。
  1. 2005/10/26(水) 00:17:18 |
  2. URL |
  3. sea1900 #-
  4. [ 編集]

TB&コメント、ありがとうございます。
生活習慣のなかにビデオを観るということが組み込まれていないため、ビデオによって過去の作品を観るということがなかなかできません。
(私をはじめてTSUTAYAに行かせたという意味でも、『メゾン・ド・ヒミコ』は画期的なのです<笑>)。
実は、友達が『死に花』をビデオにとってくれて、それも気になっているのですが…。
  1. 2005/10/27(木) 15:04:39 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

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  1. 2005/10/29(土) 15:56:09 |
  2. |
  3. #
  4. [ 編集]

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