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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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『メゾン・ド・ヒミコ』ーー深層意識のラブストーリー

18日に犬童一心と田中泯のトークショーを聴き、その機会に『メゾン・ド・ヒミコ』を再見(四度目)したこと、そしてその後、このブログでまつさんにインスパイアされながら『メゾン・ド・ヒミコ』の方法論についていろいろ考察したことをふまえ、ここでもう一度、『メゾン・ド・ヒミコ』について現在の私が感じていることをまとめておきたいと思う。

さて、『メゾン・ド・ヒミコ』を四度観終えたあとの私の率直な感想は、これは風変わりな、しかし非常によくできたラブストーリーではないかということだった。
この作品のなかに社会的なテーマを見いだそうとしている人たちは、こうした言い方を身も蓋もないと感じるのでないかと思うが、映画や小説のなかで、ラブストーリーは、これまで手を代え品を代えいろいろ語られてきたわけで、ラブストーリーというジャンルは非常に陳腐化している。そこで犬童一心が『金髪の草原』以来追い求めているのは、手垢のつかない、いわば不可能な恋物語であるということが言えるのではないかと思う。
しかしこれはなにも、犬童一心が単に奇をてらった映像作家だということを意味するのではない。そうではなくて、犬童一心は、社会のなかで人間性が希薄化していくなかで、ラブストーリーそのものが存在基盤を突き崩され、存立しえなくなりつつあるということを非常に強く感じている作家だということだ。
犬童作品を特徴づけるものの一つと指摘されるフェティシズムという性愛感情も、人間性が希薄化した世界のなかではむしろありふれた反応といえると思うが、これはなにも、フェティシズムを人間全体ではなく身体やそれにかかわる特定の部分やものを愛することと限定的に考えなくても、現代社会においては愛そのものがフェティシズム化しつつあると広くとらえれば、当然生じてくる問題設定であり表現方法だと思う。

さて四度目の『メゾン・ド・ヒミコ』、こちらには映画のいろいろな細部がすでにみえているということもあるのだが、沙織がメゾン・ド・ヒミコについて以来のいろいろなやりとり、私には、この作品が本質的にはラブストーリーであることをカモフラージュするための巧妙な仕掛けとみえた。キクエの登場も、ルビーの登場も、いわばお化け屋敷的にうまくできていて、これから展開するのがラブストーリーであるということから、観客の眼をうまくそらしている。
そうしたなかでの沙織と春彦の言葉のやりとりやさまざまな行動、これを表層的にとらえればディスコミュニケーションの典型でしかないのだが、それを柴崎コウとオダギリジョーという生身の役者が演じているのを観るとき、二人は一瞬にして互いの世界を了解し合い、その根本的な了解にもとづいて、表層的なさまざまな言葉のやりとりをしているしているようにみえてくるのだ。
私がその観を強くしたのは、沙織が母の写真について語るシーンと、物乾し場のシーンなのだが、たとえば物乾し場のシーンは、春彦が半田との外出から戻ってきたあとの、ある意味で非常になまなましいシーンなわけで、そこでかわされるキツイ会話とは裏腹に、そのときの沙織の眼差しは、春彦のセクシャリティーに対する嫌悪ではなく春彦のしたたかさに対する畏敬を含んでいるように私には感じられた。そして、それに対する春彦のリアクションだが、沙織のそうした視線に気づきながら、いや、気づいているがゆえにそれを外そうとする、複雑な心理を秘めているように思われた。
こうした複雑な演技があるために、この作品は、一見唐突なような後半が自然なものとして流れていく(作品の前半部分に伏流する、作品が直接語らないものをつかみそこねると、この作品の後半はきわめて不自然なものにみえてくる。私がいう「自然」、「不自然」というのは、そういう意味では相対的なものといってもいい)。
こうした私の印象をフォロー・アップしてくれたのが、映画をみ終わった後のトークショーで語られた、犬童一心の次のような言葉だ。
「実際に撮影にはいって人が動き出すと、ああここのシーンは実はこういう意味をもっていたのかと気がつくところがあった」
これは、この作品の構造に関する非常に重要な指摘で、つまり、この作品に関しては台本(撮影する前のプラン)とできあがった作品が、監督にとっても違う意味をもってしまっているということであり、『メゾン・ド・ヒミコ』は、撮影する前にもっていたプランを単純に具体化していくというかたちで「つくられた」作品ではないということである。

ここで、『メゾン・ド・ヒミコ』とは直接関係のないエピソードを一つ挿入することをお許しいただきたい。
これはある役者から聴いた話だが、とあるテレビドラマを撮影している時に、田中○子の演技があまりにもすばらしく、かつある時、それが必ずしも台本に書かれた通りではないことに気づいたその役者は、彼女になぜそこでセリフを飛ばしたのかと聴いてみたという。そのこたえは、「台本に書かれているセリフは、その役を理解するときには必要なものだが、その役になりきってしまえば、セリフは必要がないときがある」というものだったという。これは田中○子とある演出家が、演技というものを互いにすべて了解したうえで可能な表現ともいえるが、台本=作品ではないということを、うまく示していると思う。

さて、『メゾン・ド・ヒミコ』に戻ると、柴田コウとオダギリジョーという生身の役者が沙織と春彦を演じるとき、いくら個々のシーン(の撮影)が全体から分断されているとはいえ、個々のシーンをそこだけで完結するものととらえることは不可能で、どうしても、作品全体を考えながら個々のシーンを演じていくことになる(これは、演技論というより、どちらかといえば認識論的な問題である)。ということは、この作品の終わり方が、それ以前のシーンの演技にも反映されているということになる。あるシーンを撮影している時、直接そこで作品の終わり方を意識しなくても、潜在意識の片隅に作品の終わり方がひっかかってしまう。そうした役者の自分でも意識しないひっかかりが、観る側には反発=共感という登場人物の深層意識の表現にみえてくる。
この映画に関して、犬童一心が「演出する」ということを非常にセーブしたこと、そしてなにか記録を撮るように登場人物の動きを撮影したということ、この演出方針・撮影方針が、不可能な恋愛という主題とからみ合いながら非常にうまくいきていることがわかる。

『メゾン・ド・ヒミコ』は、みごと、深層意識のラブストーリーになりえているのである。
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テーマ:映画 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2005/10/27(木) 14:54:33|
  2. 映画
  3. | トラックバック:5
  4. | コメント:8
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コメント

TBさせて頂きました。
  1. 2005/10/28(金) 00:09:46 |
  2. URL |
  3. sea1900 #-
  4. [ 編集]

seaさん、いつもTBありがとうございます。
  1. 2005/10/30(日) 08:55:58 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

TBさせていただきました

こんにちは♪
いまさらながらですがTBさせていただきました。
私の地元では今頃公開されているんですよ。
主演俳優のファンなので7回鑑賞しているのですが、いまだに分からない部分も多い中で、こちらの記事を読ませていただいて感じることも多々ありました。
読み応えのある記事をありがとうございました。
  1. 2005/11/04(金) 08:45:53 |
  2. URL |
  3. ミチ #0eCMEFRs
  4. [ 編集]

七回も!

ミチさん、ようこそ。
私も『メゾン・ド・ヒミコ』のなかのオダギリジョー、とてもかっこいいと思いますよ(*^_^*)。
それにしても、この作品を七回も観てるとはすごいですね。
私の書いた記事、少しおしつけがましくないかと思っていたのですが、ミチさんの鑑賞のお役に立ったということであれば、とてもうれしいです。
  1. 2005/11/05(土) 09:27:18 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

言葉があくまでも「表層」であるという指摘、同意です。

犬童一心監督は、いわば「ドキュメンタリー」的な発想で
フィクション映画を創るセンスがあるんでしょうね。
監督の主観ですべてを支配しようとせず、あくまでも「場」を設定するだけ。
あとはそれぞれの表現者が自発的に遊びはじめるのを待って、記録して行く。
だからこそ、監督にも予測ができないことを面白がれるし取り入れられる。
頭がやわらかいんだと思います。
作品を何回見てもドキドキできるのは、整理整頓されすぎていないからなのかもしれないですね。
  1. 2006/01/16(月) 22:47:16 |
  2. URL |
  3. akaboshi #z6hOmddI
  4. [ 編集]

ブスじゃないからブスと言える

akaboshiさんに同意していただければうれしいです♪
この映画が公開された当初、たしか柴崎コウがブスに見えないというといった意見があったと思いますが、これ、彼女ないしは彼女が演じている役がブスだから「ブス」と言っているのじゃないと思うんですね。ブスに向かってブスと言ってみたってつまらない。
そうじゃなくて、彼女が美人だから、言う方は安心して(そしてちょっと照れ隠しに)、「ブス」と言っているんだと思います。
「ブス」という言葉のやりとり一つとったって、言葉尻だけとらえていると、この映画はさっぱりわからないということになりますよね♪
  1. 2006/01/17(火) 14:28:15 |
  2. URL |
  3. lunatique #KAqg7Yzw
  4. [ 編集]

初めまして。一回しかこの映画観を観てません。で、なんとなく掴んで、その後も考え続けていたことが、やっぱり間違ってなかったかなとlunatiqueさんの文章読んで、確認することが出来ました。
もう一回、見て見ようかな。これからも時々、遊びに来ます。
  1. 2006/01/20(金) 09:22:29 |
  2. URL |
  3. hawaii_oslo #UhVguL7w
  4. [ 編集]

Bienvenu!

hawaii-osloさん、遠方からようこそ。
私の『メゾン・ド・ヒミコ』評、なにかインスパイアできるものがあったようで、うれしいです。
またぜひ遊びにいらしてくださいね♪
  1. 2006/01/20(金) 14:30:07 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

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