le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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<言葉と物>ーーロックの場合

ロックの言語思想の続き。
ロックは、特定の本質をもったモノが存在し、言葉がそれを名指すという考え方をしない。われわれがモノの性質を知るのは感覚によるのであり、われわれが認知するモノのあり方は、われわれの感覚に依存する。われわれの目に赤や青の特定の色をして見えるものも、別の感覚をもった存在からは別の色に見えるかもしれず、色はモノの本質ではない。同様に、硬さ、味等、通常モノをモノたらしめていると考えられるさまざまな性質は相対的なものであり、モノをモノたらしめる「本質」ではない。
われわれをとりかこむ特定のモノが本質をもつようにみえるのは、言葉がそれを特定のモノであると名指すからにすぎない。
具体的にロックのテクストをみてみよう。

「多くの可感的性質で相互に一致し、また、たぶん内的仕組み・構造でも一致する、多数の個々の[特殊な]事物が自然に作られる。けれども、それらの事物を種に区別するのはこの実在的本質でない。人々であり、人々が可感的性質から、すなわち、事物のうちに合一すると見いだし、いくつかの個物が一致するとしばしば観察する、可感的性質から機をえて、包括的記号の便宜上名づけるために事物を分類するのであり、この記号のもとに個物はあれこれの抽象観念との合致に従って、標記[すなわち名まえ]のもとにあるものとして類別されるようになるのである。そこで、[たとえば]これは青という部隊[ないし種]で、あれは赤という部隊[ないし種]であり、これは人間で、あれは錐だ[ということになる]。で、私の考えでは、この点にこそ類と種の全仕事が存するのである。
いったい、個々の[特殊な]存有者が絶えず産みだされるにあたって、いつも自然に新しく多用に作られるのでなく、相互にたいへん似かよい、近縁に作られること、これを私は否定しない。が、それにもかかわらず、人々が事物を種別する種の限界は人々が作ることは真だと私は考える。なぜなら、違う名まえで区別される種の本質は、これまで[本章で]明らかにされてきたように人間の作るもので、この本質が取られる事物の内的本性と[残りなく合致して]十全であることはまずない。それゆえ、事物のこうした種別の仕方は人々の仕業だと真に言えよう。」(『人間知性論』第3巻第6章、大槻春彦訳、岩波文庫)

日本語そのものがややわかりにくいが、ロックの原文は明解だ。

Nature makes many particular things, which do agree one with another in many sensible qualities, and probably too in their internal frame and constitution: but it is not this real essence that distinguishes them into species; it is men who, taking occasion from the qualities they find united in them, and wherein they observe often several individuals to agree, range them into sorts, in order to their naming, for the convenience of comprehensive signs; under which individuals, according to their conformity to this or that abstract idea, come to be ranked as under ensigns: so that this is of the blue, that the red regiment; this is a man, that a drill: and in this, I think, consists the whole business of genus and species.
I do not deny but nature, in the constant production of particular beings, makes them not always new and various, but very much alike and of kin one to another: but I think it nevertheless true, that the boundaries of the species, whereby men sort them, are made by men; since the essences of the species, distinguished by different names, are, as has been proved, of man's making, and seldom adequate to the internal nature of the things they are taken from. So that we may truly say, such a manner of sorting of things is the workmanship of men.

ロックの思想は通常「経験論」と「種別」され、同時代にヨーロッパ大陸で強い影響力をもった「合理論」と17世紀から18世紀にかけての思想界を二分するものとされる。実は、こうした「種別」そのものが人為的なものであり、のちに登場するドイツ観念論を整合的に位置づけるために哲学史のなかに導入されたものではなかったか。いったん経験論という種別をはずして考えれば、ロックの思想は、むしろ合理論哲学を代表するデカルトの思想と驚くほど似ており、経験論とはいうものの、この言葉から普通に連想される思想とは異なり、極めて観念的だ。ロックの場合にも、デカルトが提唱した「われ思う、ゆえにわれあり」はすべての議論の前提であり、ロック流の経験論は、外的世界(経験的世界)の解明に向かうのではなく、自己を徹底的に解明しようというものにほかならない。つまり、ロックにとっても、もっとも確実な知的実定性の基準は「自己」以外にはない。自己こそがロックの経験論の出発点であると同時にそのめざすところなのだ。実体についての議論があくまでも「観念について」という枠組みのなかで語られるのは、こうした理由からだと思う。
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  1. 2005/08/24(水) 11:35:02|
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