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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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行定作品と犬童作品の表現の違いはどこからくるか

最近観た映画、行定勲監督の『GO』と『春の雪』も、犬童一心監督の『メゾン・ド・ヒミコ』も、言葉にならないものを伝えようとし、それが全体の鍵になっている作品だと思った(『GO』はビデオで鑑賞)。この記事では、これらの作品を分析しながら、その「言葉にならないもの」について、また「言葉にならないものを伝えるとはどのような事態を指すか」について、私なりに少し考えてみよう。

まず、『GO』。
この作品では、主人公杉原の親友・ジョンイルが、電話では話せない大事なことを話したいから直接会って話したいと杉原に電話したのち、地下鉄の駅で殺されてしまい、ジョンイルが話したかったことは、謎のまま残される。そして杉原や観客が、その伝わらなかったジョンイルのメッセージを考えるところに作品の奥行きが形成される。
『春の雪』では、冒頭、三島由紀夫の原作にはない、幼い清顕と聡子が百人一首をするシーンが挿入されるが、このなかで、壬生忠見の和歌「恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか」が上の句だけ読まれ、下の句が読まれないということに、「秘めたる恋」という強いメッセージ性が感じられる。
私は、『GO』という作品と『春の雪』という作品は、画面のなかで暗示されるだけにとどまり具体的に示されなかったものが、直接示されなかったがゆえに大きな意味をもち、作品に奥行きを与えるという点で構造的に共通していると思う。

ところが、『メゾン・ド・ヒミコ』のコミュニケーションについての考え方は、『GO』『春の雪』とは、方向性が異なる。『メゾン・ド・ヒミコ』においては、一見、画面をとおしてすべてが語られ、すべてが示されているように思われるにもかかわらず、われわれは語られざるなにかを感じる(それがこの映画への感動となったり不満になったりする)。これはどういうことなのだろうか。

考えてみると、たとえば、『GO』のなかのジョンイルのメッセージは、ジョンイルの死によってたまたま語られずに終わってしまうのだが、もし仮に彼が死ななかったらという展開を考えると、作者によって、それは本質的に語ることができる、伝えることができる性質のものだったと想定されていることがわかる(ただし、それは「会う」という行為を介在させることによって伝えることができるものであり、「電話」では伝えられないとされている。これはこれで、コミュニケーション論としておもしろい問題だが、ここではその問題は省略する)。
『春の雪』のなかの壬生忠見の和歌の扱いもこれとほぼ同じ。それは百人一首のなかに入っている和歌であるがゆえに、百人一首を丹念にあたれば、下の句(のメッセージ)、そしてあえて下の句を読まないということのメッセージ性は誰でも発見することができる。
するとこれらのメッセージの非伝達性は状況からくるもので、メッセージが本来含んでいる問題ではないということがはっきりしてくる(作者の関心は、メッセージの内容ではなく、メッセージが伝わらないという状況にある)。

これに対し『メゾン・ド・ヒミコ』が提起するのは、物理的な障害は存在しないにもかかわらず伝えることができないなにものかの存在という問題である。
たとえば、主人公・沙織の母が別れた夫・卑弥呼と秘かに会っていた(卑弥呼の行動を秘かに認めていた)ということは、『メゾン・ド・ヒミコ』の鍵となる重要な事実だと思うが、なぜ彼女がそうした自分の行動を沙織に説明しなかったのかについて、映画はなにも語らない(だいいち、母親そのものが映画には登場しない)。こうした意図的沈黙は、おそらく、自分の行動をいくら説明しても娘はその行動を理解できないし、それゆえそれを語ることは意味がないと母は考えていたからだと、私は思う。そうした母の行動およびそれが自分に隠して行われていたことについて、映画のなかで沙織は真剣に悩むのだが、そのこたえは、沙織自身の問題としてしか与えられない。つまり、一人の男を真剣に愛し、悩んだとき、沙織は、自分の問題として母親の愛と苦しみを了解する。この部分、結果だけをとらえれば、亡くなった人(ジョンイル、沙織の母)が提起した問題を自分の問題として解決するという点で『GO』と『メゾン・ド・ヒミコ』は共通しているのだが、二つの作品のあいだには、ジョンイルは自己の思いを語ろうとし、沙織の母はそれについて沈黙したという、決定的な違いがある。
しかし、『メゾン・ド・ヒミコ』が提起する、ある心理や感情を伝えることの難しさは、この母と沙織のあいだのコミュニケーションの問題、より正確にはコミュニケーションの伝達や受け止め方の問題にはにとどまらない。実は、母と沙織の関係もそうなのだが、沙織と父親・卑弥呼、沙織と卑弥呼の恋人・春彦、これらの人間関係は、単純に憎しみや嫌悪といえるものを超えたさまざまの感情がからまって形成されており、一方が主で他方は従であるというようなかたちで単純化することができない。

こうした『メゾン・ド・ヒミコ』的コミュニケーション論は、通常の意識論、コミュニケーション論の範囲では非常に説明しにくいのだが、私は、密教の十一面観音という構造モデルを介在させることで、この問題の本質がわかりやすくなるのではないかと考えている。
十一面観音とは、一つの身体のうえに十一の面(顔)がついている観音(まれに、十二面や十面の場合もある)で、それらの十一の面は、具体的には、正面の三面が慈悲相(菩薩面、寂静面)、左三面が瞋怒相(忿怒相、忿怒面)、右三面が狗牙上出相(白牙相)、そして後の一面が大笑相(大笑面、暴悪大笑面、暴悪相)、頂上の一面が仏面相(仏面、如来面)となっている。十一面観音像がつくられるようになった背景、通常は、さまざまな状況における観音のさまざまな心理やはたらきを十一に要約し、一つの身体のうえに表したとされることが多いが、そうではなくて、私は、人間の心のなかでは、慈悲も怒りも笑いも悟りも、究極的には同じであり、人は、たとえばなにかを哀れんでいるときに同時に怒り笑いそして悟っているということを積極的に造形したものではないかと思っている。
しかし、言うは易し行うは難し。実際には、こうした心理状態は造形、表現が非常に難しい。ここでこの記事の主題である言語表現とからめながらこの問題に迫ってみると、われわれがふだん使用する日常言語は、とある限定された事柄に対応することで「意味」や「はたらき」をもっているわけだが、十一面観音的表現とは、言語を限定された指示対象から解き放つことに意義があり、このため、通常のコミュニケーション論からすれば、そうした表現をもってしては「意味」は伝わらない・伝えることができないということになる。
こうした混沌とした心理状態を「虚」と言ってかたづけてしまうなら話は簡単なのだが、私などは、人間の日常意識、日常心理というのは、そうした本来的な混沌の一部を汲み上げたにすぎないもの、したがって、一見単純にみえる意識作用も一皮めくってみれば混沌なのではないかと考えているので、十一面観音の造形の問題を、簡単には看過できない。
また仏教史的にみれば、十一面観音を造形した密教の意識論は、三島由紀夫が晩年に関心を示した唯識教学(法相宗)の潜在意識論を発展的に受け入れたものであり、十一面観音の造形の背後に潜在意識論の存在を指摘するのは、あながち見当違いとはいえないと思う。

さてこうした私の考え方からすると、『メゾン・ド・ヒミコ』の映画作法は、混沌とした人間意識を、単純化してしまうことなく混沌としたまますくいあげたものであり、話法として非常に巧みにできているといえる。また、事態を分析的というよりは包括的にとらえる映画表現の特性とも合致していると思う(たとえば小説というジャンルやこの私の書き込みは、日常言語、さらには分析的話法と緊密に結びついているために、『メゾン・ド・ヒミコ』が伝えたものをそのままのかたちで伝えることはできない)。
『メゾン・ド・ヒミコ』は、日常意識を超えた世界について、表面的にはなにも語らない。しかしだからといって、『メゾン・ド・ヒミコ』が描き出す世界が日常意識の世界のなかで終始しているということはできない。あえていえば、『メゾン・ド・ヒミコ』は、作品全体が日常意識を超出していくことへの大きな賭けなのだと思う(犬童一心監督は、『メゾン・ド・ヒミコ』はなにかを試す映画なのだと語っている)。したがって、『メゾン・ド・ヒミコ』のおもしろさとは、そこで具体的に示されているもののおもしろさではなく、映画をとおして模索されているもののもつおもしろさだといえる(作品は、その模索のプロセスだけを具体的に提示しているのだ)。

とりとめのない記事になってしまったが、まとめとして、最後に簡単に、行定作品と犬童作品が提示する恋愛観の違いを示しておこう。
『GO』では、映画の冒頭『ロミオとジュリエット』のなかのセリフが引用され、「バラという名で呼ばれる花は、roseであれ、バラであれ、どのような名前で呼ばれても本質は変わらない」という認識論が示される(周知のように、この命題はウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』の根本テーマである)。これは、映画のなかの恋愛観とからむもので、民族、言語、国境を超えて恋愛の本質は一つという主張に繋がる。
ところが『メゾン・ド・ヒミコ』は、恋愛をそのように単純化してはとらえない。嫌悪や憎しみがそのまま愛に転化していくような恋愛もある。いや、嫌悪や憎しみが愛に転化するのではなく、実は嫌悪や憎しみそのものが愛であるという、通常の意味での意識論・本質論を超えたところで、その恋愛観は語られる。またその恋愛は、同性愛でもなければ異性愛でもなく、既成の恋愛概念にはまったくあてはまらない、その意味では恋愛とは呼べないような恋愛でもある。つまり、『メゾン・ド・ヒミコ』の恋愛観は、いわば、恋愛を解体したところに成立する絶対的恋愛観なのである。

(この記事は、北野武作品『TAKESHIS'』を観る前に構想したものだが、書き終えたのは『TAKESHIS'』を観た四日後である。このため、『TAKESHIS'』のなかで展開されているコミュニケーション論・表現論をも念頭におきながら書くことになった。ただし『TAKESHIS'』が内包しているコミュニケーション論・表現論については、別のかたちでとりあげたいと思っている。)
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テーマ:映画 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2005/11/09(水) 12:28:58|
  2. 映画
  3. | トラックバック:3
  4. | コメント:5
<<映画からなにかが伝わるとは | ホーム | 内藤明美さんのリサイタル>>

コメント

TBありがとうございました

こんにちは♪
私の頭では2回読ませていただいてもなかなか理解したとは言いがたいですが、最後の二人の監督の恋愛観の違いの部分は納得です。
一本の映画からここまで理論を展開できるなんて素晴らしいですね~。
私なんて俳優中心に見ていてお恥ずかしい限りです(照)
  1. 2005/11/09(水) 19:10:06 |
  2. URL |
  3. ミチ #UZXVS8Ac
  4. [ 編集]

コメントありがとうございます。

ミチさん、ややこし文章を読んで下さったばかりか、コメントまで書き込んでくださり、ありがとうございます。
読み返してみると、今回の記事も言葉足らずなのですが、『メゾン・ド・ヒミコ』のことは簡単には書きつくせませんから、これからも、なにか思いついたらまたいろいろ書いていこうと思っています。
それと、『GO』のことも、私が書いたのはこの映画のほんの一面にすぎず、いろいろな社会的ひろがりをもった作品だと思いますが、私の場合、どうしてもその作品とコミュニケーション論・表現論とのかかわりということにまず目がいってしまうのですね。
窪塚洋介、今回はじめて観たのですが、生き生きしていてとてもいいなあと思いました。
『GO』のなかの柴崎コウの古典的美女ぶりにもびっくり(笑)。
  1. 2005/11/10(木) 14:08:02 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

『GO』を観ました。というよりもすでに観ていました。
行定監督は、頼まれてこの映画を作ったそうです。
私は監督のある種の軽さが好きです。軽いと言うのは、変にこだわらない事でも有るのでしょう。
TBさせていただきます。
  1. 2005/11/18(金) 15:50:29 |
  2. URL |
  3. sea1900 #-
  4. [ 編集]

ありがとうございます。

sea1900さん、いつもTBありがとうございます。
  1. 2005/11/19(土) 09:19:29 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  1. 2005/11/21(月) 01:05:50 |
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  3. #
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映画「メゾン・ド・ヒミコ」

映画館にて「メゾン・ド・ヒミコ」 ★★★★☆京都で2度鑑賞。頭の中を「母が教え給いし歌」が流れ、自分の心の整理が付かず、感想がまとまらない状態。「メゾン・ド・ヒミコ」はゲイのための老人ホーム。そこでは時間がゆったりと流れ、静かで、時に騒々しく、独特の暖か
  1. 2005/11/09(水) 19:06:07 |
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  1. 2005/11/09(水) 22:21:36 |
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「  GO  」

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