le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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映画からなにかが伝わるとは

直前に書いた行定作品と犬童作品の分析のなかで、犬童作品(『メゾン・ド・ヒミコ』)のコミュニケーション論の分析に不十分な点を感じたので補足しておく。
直前の記事では、『メゾン・ド・ヒミコ』が提起するコミュニケーションの難しさの問題として、①母と沙織のあいだのコミュニケーションの問題、②沙織の内部での意識のありかたの問題ーーの二点を指摘したのだが、少し考えているうちに、この二点は明確に区別されるべきだと思えてきた。

まず①の問題だが、これは伝達される内容というより、受け手の側の受容力に強くからんでくる問題だ。送り手が伝達しようとするものが非常に複雑なメッセージである場合、受け手は、そのメッセージを受け損なうという事態が充分予想される。ただし、そのメッセージの複雑さが単純に論理的な側面にあるのであれば、送り手は、受け手にあわせてその論理をいわばかみくだくことで、メッセージはある程度伝達可能となる。問題は、そのメッセージの複雑さが論理的な側面にはない場合で、この場合、メッセージは本来的に伝達不可能といわざるをえない。この、メッセージの複雑さが論理的な側面にない場合とはどのような場合かといえば、受け手が送り手と同じ感覚器官・受容器官を欠く場合や、受け手が送り手と同じ体験を欠く場合ということが想定できる。たとえば目の不自由な人に、色彩感覚をストレートに伝えることはできないし、ある体験をとおしてはじめて了解できる事柄を、そうした体験を欠く人に直接伝えることはできない。『メゾン・ド・ヒミコ』の母と沙織の場合は、この、受け手が母と体験を欠くために伝えることができないというケースに相当すると考えられる。

次に②の問題は、受け手の問題というより、伝達しようとする情報そのものが内包する問題、もしくは伝達手段・伝達行為そのものが内包する問題である。
②の説明として、直前の記事では十一面観音の造形を例示したのだが、映画のなかにこうした表現が皆無というわけではない。その例として今私に思い浮かぶのは、『戦場のメリークリスマス』(大島渚監督)のなかの陸軍軍人ハラの処刑直前のシーン。この作品では、ハラに扮するビートタケシの演技が非常に評判になったのだが(このことは、北野武の最新作『TAKESHIS'』のなかでも比喩的に回顧されている)、処刑直前のシーンで、タケシはなんとも表現しようのない泣き笑いをして絶賛された。
処刑直前の人間の心理の分析というと、私は加賀乙彦のいくつかの作品を思い浮かべるのだが、自身監獄医でもあった加賀は、死刑囚と無期囚の心理状態の違いに強い興味をいだき、死刑囚は時間の閉所恐怖、無期囚は時間の広場恐怖のなかにいると分析している。処刑直前の死刑囚は、われわれの常識とは異なり、往々にして非常な躁状態に陥いって喜びと悲しみの感情を同時に示すのだが、これを加賀は、じっくり喜んだり嘆き悲しんだりする時間的余裕がない死刑囚は、すべての感情を同時に表出せざるをえないのだと指摘している。『戦場のメリークリスマス』におけるビートタケシの極限的な演技の説明として、この加賀乙彦の分析以上のものはないだろうと私は考える。
こうした凝縮された心理をそのままダイレクトに伝えることができるメディアとして、映画は非常にすぐれている。そして、それを死という極限状態においてではなく、日常心理のなかに見いだしたのが『メゾン・ド・ヒミコ』だといえるのではないだろうか。

ところで、『メゾン・ド・ヒミコ』のなかでは、①の問題は、実は②の問題とからめながら提起されているともいえる。つまり、別れた夫・卑弥呼に対する母の思いは、愛・嫌悪といったかたちで明確にはなっておらず、しかもこれに社会通念が絡んでくるので、特定の感情として他の人間には伝えられないということになる。そうした複雑な状態・感情を、沙織の母は体験してしまったのだ。そのとき、この苦しみ・悲しみであると同時に喜びである感情を、そうした感情を体験したことのない人間に伝える手段をもたないと、母は判断したのであろう。
しかし、母のこうした複雑な思いについて映画は直接的にはなにも語らないので、われわれは映画を観ながらそれを想像するしかない。このブログに私が記している解釈も、そうした意味においては絶対的なものではなく、あくまでも私の解釈であり、母の思い、母の沈黙については、映画を観た人が、自分の体験にあわせて、それぞれ自分の解釈を構築していくしかない。『メゾン・ド・ヒミコ』という作品は、作品から正しい解釈を導き出すことよりも、各人が自己の解釈を構築することの重要性を語っているようにも思われる。

考えてみると、映画というのは(そしておそらく小説も)、不思議なコミュニケーションだ。われわれは、映画を観たり小説を読んだりするとき、その作中人物になった気がして映画や小説のなかのできごとを疑似体験する。
しかしこの疑似体験とはいったい何なのか。作品のメッセージが、疑似体験しかもたないわれわれに伝わるとはどのような事態であるのか。
映画や小説について語らなくてはならないことは多い。
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テーマ:不連続的差異論 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2005/11/12(土) 14:12:16|
  2. 映画
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
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コメント

伝わるもの

 TBありがとうございました。
 ていねいに分析していただいて、私にも腑に落ちました。

 今日は不穏な雲と青空の混在する空の下で、海に出ていました。自然は何も「伝えたい事」を持たないので、人間は自然の中に、自分の都合と興味次第で何でも「見出す」ことになります。今日の空と相模湾の海と伊豆の山々は、「人間のコミニュケーション」のように複雑で、とてもきれいでした。
  1. 2005/11/12(土) 21:18:18 |
  2. URL |
  3. kobanto #MF9oAZGM
  4. [ 編集]

静かの海

自然に向かうと、なにも解釈しなくて済むので、いやされるのでしょうね。私などは、解釈過剰でいけません(笑)。
ところで『メゾン・ド・ヒミコ』、御前崎の近くでロケしているので、いつも背景に海がでてきて、それがとてもいいんです。
  1. 2005/11/13(日) 00:54:26 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

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