le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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三島由紀夫『愛の渇き』ーー 「意識」のもたらす不毛の構図

映画『春の雪』公開をきっかけに、このところ三島由紀夫の小説ばかり読んでいる(『仮面の告白』『禁色』『潮騒』『音楽』『春の雪』)。これらをとおした私なりの三島論は、いずれじっくり記してみたいと思っているが、今朝は『愛の渇き』を読み終えたので、とりあえず、この作品を中心に三島文学について感じていることの中間報告を試みてみよう。

『愛の渇き』は、『仮面の告白』を出版した翌年の昭和25年に発表された中編小説で、その翌年に大作『禁色』が執筆されている。
ストーリーは、大阪近郊の富豪の家におこる恋愛事件。家の主・弥吉には、謙輔、良輔、祐輔の三人の息子がいるが、長男の謙輔夫婦は弥吉の家に寄食、良輔は病死、祐輔は戦後シベリアに抑留されて戻ってきていない。悦子は次男・良輔の妻で、良輔没後、弥吉の家に身を寄せている。
さて、良輔の生前、悦子は夫に対する愛を感じないまま、夫の浮気に苦しめられる。弥吉の家では、舅・弥吉に求められるまま体を許すが、弥吉を愛しているわけではない。悦子の関心は、おのずから若くたくましい下男・三郎に向かうが、三郎に愛を告白するわけでもなく、三郎の行動を監視してはまた嫉妬に苦しめられるだけである。

さてこの三郎だが、三島は、無教育で野性的な自分好みの若者としてこれを造形している(『潮騒』の新治に近い設定)。そして三郎の魅力の一つは、そうした自分の魅力に気づいていないところにあるのだが、悦子の行動によって最終的に自分の魅力に気づかされる。しかしそれに気づいた三郎は、同時に、自分は誰も愛していない、誰をも愛さないということにも気づく。その部分の三島の描写は次のようなものである。

「この一見便利そうな合言葉(註:愛)は、彼には依然として、彼が行きあたりばったりに送って来た気楽な生活に余計な意味をつけ、また彼が今後送べき生活に余計な枠をはめこむ、何かしら剰余の概念としか思えなかった。この言葉が日用必需品として存在し、時と場合によってはこの言葉に生死も賭けられる、そういう生活の営まれる一室を彼は持たない。持たないばかりか、想像することさえ容易でない。ましてやそんな一室の持主の、その部屋を亡ぼすために家全体に火を放つような愚行のたぐいは、彼には笑止のいたりだったのである。
 若者が少女のそばにいた。その当然の成行として、三郎は美代に接吻した。交接した。そして美代の腹には子供が芽生えたのである。また何かしらんの成行によって、三郎は美代に飽きた。一そう子供らしい戯れはさかんになったが、少なくともそんな戯れは、相手が美代でなくても誰でもよかった。いや、飽きたといっては妥当を欠くかもしれない。美代が三郎にとって必ずしも美代であることを要しなくなったまでである。
 三郎は人間がいつでも誰かを愛さないなら必ず他の誰かを愛しており、誰かを愛しているなら必ず他の誰かを愛していないという論理に則って行動したことがたえてなかった。」(新潮文庫版、220~1頁)


もとより、悦子とて特定の男を真剣に愛したことはない。誰をも愛さないまま身勝手な嫉妬にさいなまれていただけなのである。三郎への一方的な思いも、それが秘めたる思いであるから意味をもつのであって、その思いが明らかになった瞬間、三郎が悦子を愛するという保証はどこにもない。自己意識といったものをほとんどもたない三郎と、名門意識、インテリ意識で武装した悦子(おそらくは三島の分身)の精神世界のへだたりはあまりにも大きい。三郎に愛されたいという悦子の気持ちは、結局は自己愛を変形させたものにすぎないのである。

したがって『愛の渇き』は、恋愛小説に似てはいるものの、通常の意味での恋愛は少しも描かれていない。そしてこうした構造は、三島の小説のなかで最後までかわることがなかったのではないかと私は思っている。
たとえば、一見同性愛の恋愛小説にみせかけた『禁色』において、主人公の悠一はさまざまな男と肉体関係をもつが、それらの男に恋愛感情をもつことはない。『春の雪』の清顕も、自己意識ばかりが強く聡子を愛することができない男として造形されている。清顕の心理や行動は、幼さや環境によるというより、結局、三島的世界の人間という枠のなかで理解しなくてはならないのではないかと思う。

ところで、三島がサド侯爵の作品にひかれ、サドの翻訳者である澁澤龍彦と親交を結んでいたのは有名だが、三島がサド侯爵にひかれたのは、必ずしも三島にサディズム的傾向があったからということではなく、サド侯爵の作品がけして恋愛を描かなかったからではないかと、今、私は思っている。
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テーマ:本の紹介 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2005/11/13(日) 14:50:02|
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