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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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三島由紀夫『沈める滝』ーーエピクロス的人間像の完成

『沈める滝』:昭30年刊の三島由紀夫の中編小説。三島は、前年、昭和29年に『潮騒』を発表、また昭和31年に『金閣寺』を発表。『沈める滝』は、ちょうど油がのった時期の作品といえる。
ストーリーは、某電力会社に勤める何不自由のないエリート青年・城所昇が、とある女性をしったことを機に、その女性から自分を引き離すことを目的に、一冬、外界と交通が謝絶された山奥のダム建設現場ですごし、初夏の訪れとともにその女性と再会するというもの。三島の小説としては珍しく、自然の描写、巨大なダムの建設にかける青年の思いが客観的な筆致で描かれており、それが他の三島作品にはないこの小説独特の魅力といえる。

「実際、瀬山の濫用する「人間的」という不潔な言葉は別として、人間主義の下に包まれていた時代の技術には、自分たちの作るものが神の摂理にも叶い、人々の幸福にも資するという安楽な予定調和があり、使命感があったろうと昇には思われた。われわれの時代がそれを失ったのは事実だが、しかしまた、何人かの人間が夢中になることなしには、何人かの精神の集中と情熱と精力なしには、決して出来上がらない仕事が今日もなお存在することも事実なのだ。仕事というものは本来そうしたものだし、中世の職人的良心や、ブゥルジョアジーの十九世紀的勤勉さは、仕事というものをそれ以外のものだとは決して考えなかった筈である。
 技術がもし完全に機械化される時代が来れば、人間の情熱は根絶やしにされ、精力は無用のものになるだろうか。科学技術の進歩にそそがれる情熱や精力は、かかる自己否定的な側面をも持っている。しかし幸いにして、事態はまだそこまでは来ていない。
 ダム建設はこのような意味で、一種の象徴的な事業だと思われた。われわれが山や川の、自然のなお未開拓な効用をうけとる。今日ではまだ幸いに、われわれ自身の人間的能力である情熱や精力の発揮の代償としてうけとるのだ。そして自然の効用が発掘しつくされ、地球が滓まで利用されて荒廃の極に達するまでは、人間の情熱や精力は根絶やしにはされまいという確信が昇にはあった。
 ダム建設の技術は、自然と人間との戦いであると共に対話でもあり、自然の未知の効用を掘り出すためにおのれの未知の人間的能力を自覚する一種の自己発見でなければならなかった。
 あの幸福な予定調和を失い、人間主義の下における使命感と分業の意識を失った技術は、孤独になりながらも、今日ではエヴェレスト征服にも似たこうした人間的な意味をもつようになった。つまり瀬山のいうように、一定の機構の下におしこめられた技術に、ひよわな技術者的良心が追随してゆくのではなく、それとは逆に、人間的能力の発見の要請が先にあって、技術がそれに追随してゆくべきなのだ。」(新潮文庫版、99~101頁)


しかし、作品の冒頭と結末の人妻・顕子とのエピソードはやはり三島のもの。逆にいうと、この人間くさい枠構造が、自然と対峙する小説という『沈める滝』の全体構想を無化しているようにも読める(自然とは、あくまでも人間に「征服」されるべきものにすぎない)。
昇も顕子も、偶然にであうまで、恋のアバンチュールは多いが相手に夢中になることはなく、一夜限りの関係を繰り返すさめた人間として描かれる。しかしそうしたさめた人間同士である昇と顕子の情事は二人の内面を変化させ、互いに、はじめて次の機会をもちたいという気持ちを抱く。その気持ちにとまどった昇は、先述のダム建設現場での越冬を志願するのである。
しかし情事による変化は顕子の方が大きい。男に対する顕子のさめた態度は、実は不感症という肉体性からくるものであり(不感症の女性の問題は『音楽』<昭和40年>に引き継がれる)、昇によってそれが癒されたと感じてから、顕子の思いは急速に昇に傾いていく。しかしそうして普通の女に変貌した顕子を、昇はもはや愛することができない。昇にとっての顕子の魅力は、あくまでも、情事の最中になにも感じないというところにあった。このすれ違いが悲劇となって、『沈める滝』は閉じられる。

結局、『沈める滝』における昇の人物造形は、『禁色』の悠一の内面をそのまま引き継いだものといえよう。女(同性愛者である悠一の場合は男)と情事を重ねながらそのどれにも入り込むことのない青年というほとんど人工的な設定、『禁色』の場合は完全な都会人(大学生)であったものが、『沈める滝』の場合は、石や鉄といった無機物のみを愛して成長し、社会のなかでは大自然にも人間から遮断された生活にも動じない男として造形される。こうした設定は、一面では『潮騒』の新治にも似ているが、野性人である新治は、自己の内面を吐露して小説を牽引することができない。『沈める滝』の昇にいたって、快楽を極めてその快楽を超克し、いわばエピクロス哲学のアタラクシアの境地にたつ人間像は完成されたといっていいだろう。
一方、そうした昇に、そして昇のみに共感した顕子は不幸な存在というしかないが、三島は顕子のなかには深く入り込まず、人里離れた山奥に秘かに存在しダムが完成すれば水没してしまう「沈める滝」のようなものとして冷たく突き放して描く。
三島らしい男性中心のエゴイスムも顕在である。
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テーマ:本の紹介 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2005/11/16(水) 12:34:00|
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