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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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三島由紀夫『金閣寺』ーー美学も犯罪論も不在の奇妙な犯罪小説

三島由紀夫の『金閣寺』(昭和31年刊 )を読んだ。これ以前の三島作品と異なり、この作品には三島の直接の分身も登場しなければ、三島の理想の化身も登場しない。『金閣寺』は、ある意味で、三島が書いた最初の小説らしい小説だといえると思う。
しかし、この作品が書かれてから約50年たった現在、この作品を小説として純粋に味わうだけでなく、一度この小説を解体し、三島と『金閣寺』の関係をあらたな視点から見なおしてみる必要もあるのではないかとも思った。以下、そうした観点から、作品としての『金閣寺』を少しはなれ、この記事では、『金閣寺』を書くという行為が三島にとってどのような意味をもつものだったのか、少し考察してみよう。

まず、久しぶりに『金閣寺』を再読して私が感じた、この作品が内包する矛盾(問題点)をあげてみる。
①金閣寺とは美か?
②金閣寺放火は犯罪か?
③『金閣寺』という作品は、放火心理の説明たりえているか?

①については、金閣寺がある種の美であることを認めるにしても、それが日本を代表するものかということになると、私には疑問がある。もしこれが銀閣寺とか平等院鳳凰堂というのであれば、その美は、純粋に美学的問題、精神的問題として論ずることができるであろうが、金閣寺は、建物全体に金を貼っているということがその美のあり方とかかわる重要なポイントを占めているわけで、本質的に、美というよりは、権力とか富の象徴という側面が強いのではないだろうか。つまり、金閣寺という建造物は、建築史のなかでいえば中尊寺金色堂や秀吉の黄金の茶室につながるものではないか私には思えるのである。したがってそれを単純に「美」と言い切っていいものかどうか、三島は金閣寺を「美」と考えていたどうか、それが、この作品を再読して感じた最大の疑問だった。
そうした点から勘ぐれば、金閣寺をめぐる義満と世阿弥の同性愛のエピソード(文学作品でいえば、杉本苑子の『華の碑文』などにくわしい)などの方が、三島的にいえば金閣寺を他の空間とは異なる特別な空間たらしめるにたるものだと思うが、『金閣寺』という作品のなかに金閣寺が歴史的にどのような意味をもつ空間であったのかということへの言及はなく、作品は、ひたすら建造物としての金閣寺の讃美に満ちている。
この作品が戦後間もない時期に書かれ、日本的なものへの憧憬が作品の根底にあること、さらには、昭和25年に実際に起こった金閣寺放火事件が貴重な文化遺産の喪失として日本人の意識になまなましい印象を与えていた時期に書かれたことを考え合わせても、三島自身の金閣寺観、あるいは北山文化への言及がないということは、この作品を失われた美への挽歌として読もうとするとき、奇妙な事実というべきではないだろうか。
要するに、『金閣寺』という作品は、一見ある美の喪失について書いているようにみえながら、三島は、その美そのものには少しも関心をはらっていないのである。

②の点も従来あまり指摘されていないと思うが、金閣寺放火というのは、少なくとも自然法上の犯罪ではない。つまり、たとえば殺人が犯罪であるということと、金閣寺放火が犯罪であるということを同列に論じることはできない。また、一般的にいって放火が他者の財産の侵害という意味で自然法に触れるとしても、特定の人の財産とはいえない金閣への放火は自然法上の犯罪とはいえない。
三島は、たとえば『青の時代』(昭和25年刊)のなかで数量刑法学なる奇妙な概念(新潮文庫版、77~78頁)をもちだしてきたり、『春の雪』(昭和44年刊)のなかで主人公清顕の友人・本多繁邦に「実定法への懐疑と或る疾ましさ」(新潮文庫版、78頁)を抱かせたりしているが、『金閣寺』という作品は、犯罪そのものを主題にしているにもかかわらず、そうした法学的な知識や懐疑をもちだすことが慎重に避けられている。そこで、この作品を評論する際、一般的には「美への犯罪」といった文学的概念をもちだしてこざせるをえないが、こうした概念が法学上なんら意味をなしえないということは、東大法学部出身の三島には明白だったであろう。
要するに、金閣寺放火は、社会的な規範の侵犯であるがゆえに犯罪とされるわけだが、自然法的モラルのようなものを持ちだしてきて考えると、単純に犯罪とはいえない側面をもっている。この点をもう少し深く考えるために、『春の雪』で展開される三島(本多)の法や犯罪に対する考え方をみてみよう。
「本多は、十九世紀のロマン派的な歴史法学派や、さては民俗学的法学派の思想にとらわれていたわけではなかった。明治の日本はむしろそういう歴史主義から生れる、国家主義的な法律学を要求していたけれども、彼は逆に、法の根柢にあるべき普遍的真理のほうへ顔を向け、それだからこそ今ははやらない自然法思想にも心を惹かれていたのに、このごろでは法の普遍性が包摂する限りを知りたく、もし法が、ギリシア以来の人間観に制約された自然法思想をふみこえて、よりひろい普遍的真理(かりにそんなものがあるとして)へ足をつっこめば、そこで法自体が崩壊するかもしれないというような領域へ、いちずに空想を馳せることを好んでいた」(新潮文庫版、75頁)
しかし『金閣寺』のなかに、こうした「法自体が崩壊するかもしれないというような領域」への直接的アプローチはない(あえていえば、この作品のなかで複数の解釈が試みられている「南泉斬猫」の公案が、そうした領域に通ずる可能性はあると思う)。とすれば、『金閣寺』という作品の主題はなんなのか?少なくとも単純に犯罪心理の解明であるということはできないと思うが、三島はその辺の議論をあえて曖昧にぼかしながら、一般論として『金閣寺』を執筆したとしかいえないのではないだろうか?

③、これは②の問題点ともからんでくるが、作品の中心を構成する叙述(主人公・溝口の生活環境や心理の分析)と金閣寺放火という具体的行為がうまく結びついていないのではないだろうか。つまり、『金閣寺』の主人公と同じような環境・心理状態にあったとしても実際に犯罪は犯さないというケースは数多く考えられると思うが、そこで主人公を放火という具体的な行為に踏み切らせたものは何なのか。この最も肝心な点が、三島の筆力によっても描き出されていないように、私には感じられる(というのは、もしかすると、作品『金閣寺』における放火は、あくまでも観念上の行為だからだろうか?)。
言い方をかえると、これは、放火にいたる主人公の人生や心理は、はたして放火の原因なのかどうかという問題なのだが、少なくとも私には、それが放火の直接的原因とは思われない。つまり、主人公のそうした人生や心理が、主人公をして放火という具体的行為を行わせるためには、なにか決定的な飛躍が必要なのではないかと私は思う。しかしそうした意識の飛躍のようなもの、『金閣寺』の描写にはない。これは、三島が無意識を認めないということにもかかわってくる問題だと思う。
これはなにも、三島に対して私が無理難題をふっかけているのではなく、『春の雪』を読めば、三島自身にも次のようなすぐれた犯罪心理の描写がある。
「それからどうして二人が浜町河岸の空地の夕闇の中へ紛れ入ったのか、とみの記憶も定かではない。帰ろうとするひでを、とみが無理に引止めているうちに、足が自然にそちらへ向いたのかとも思われる。ともあれ、とみははじめから殺意を以てそこへ誘導したのではない。
 二言三言なお争った末、ひでは川面だけに残っている夕明りに、白い歯並の見えるほどに笑って、こう言った。
『いつまで言ったって無駄ですよ。そんなにしつこいから松さんにも嫌われたんでしょ』 この一言が決定的であった、ととみは陳述しているが、そのときの気持はこんな風に述べられている。
『…それをきいたとき、私は頭に血がのぼって、さあ、何と申しましょうか、丁度暗闇のなかで、赤児が何やらが欲しい、何やらが悲しくてたまらぬと思いましても、愬える言葉もなく、ただ火がついたように泣き出しまして、むしょうに手足をばたばたさせるような気持で、そのわれにもあらずばたばたする手が、いつのまにか風呂敷包を解いて庖丁を握り、庖丁を握ってばたばたしている手に、闇のなかで、ひでさんの体がふつかってしまった、と、こう申す他はありませんような次第でございました』」(新潮文庫版、254~5頁)

この殺人の瞬間の描写と『金閣寺』における放火の瞬間の描写を比較すると、『金閣寺』の描写には明らかに何か決定的なものが欠けているといわざるをえない。とすると、『金閣寺』を単純に犯罪心理を描いた作品とすることはできないのである。

ここで、②と③の問題点を簡単にまとめると、『金閣寺』という小説は、心理小説としてはおもしろいと思うのだが、それが無理やり犯罪心理、犯罪の動機と結びつけられているという気がする。それでもあえて、この小説が何かを描こうとした小説だとすれば、それは生きようと決意する人間の物語、主人公が生きようと決意するまでのプロセスを描いた物語ということになろう。そうした主人公にとり、金閣寺放火は単なる「一ト仕事」でしかない。そしてそう考えない限り、②や③の矛盾は解決しない。しかしそれにしては、『金閣寺』という作品は仕掛けがあまりにも大げさで、大方の視点は、その仕掛けにのみ目がいってしまうのではないかと私には思われる。

参考ページ重森完途氏『鹿苑寺庭園』の要点(金閣寺および金閣寺庭園の成立史)

   *    *    *

『金閣寺』を読み終えたところで、三島についてあるまとまったイメージを構築したいと思っていたところ、書店でたまたま『三島由紀夫ーー没後35年・生誕80年』(河出書房新社/文藝別冊)をみつけたので、さっそく購入した。
そのなかでまず最初に読んだのは、「三島由紀夫ーー世紀末デカダンスの文学」という澁澤龍彦と出口裕弘の対談(初出は『ユリイカ』86年5月号)。三島が無意識を認めないと主張しているということは、この対談で知った(230頁)。ただし、澁澤、出口の二人が、三島作品を最初から傑作と決めてかかっている点には賛成できない。われわれは三島作品を評価の定まった古典として受けとめるのではなく、もう一度原点にたちかえり、それがほんとうにすぐれたものであるかどうかを作品に即して判断するところから、三島論を構築していかなくてはならないのではないだろうか。
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テーマ:本の紹介 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2005/11/20(日) 12:19:11|
  2. 文学(人と作品)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:7
<<市川崑『炎上』ーー三島の『金閣寺』を自由に読み替え | ホーム | 三島由紀夫『沈める滝』ーーエピクロス的人間像の完成>>

コメント

はじめまして。
楽しく読ませていただきました。
ただ放火について少し言わせてもらえれば
放火(厳密に言えば非現住建造物放火)は
刑法上「危険犯」と呼ばれるものです。
たとえ私人が金閣寺に所有権を持っていないために、
私人の所有権を侵害するものではないとしても
法益(法によって保護された利益)侵害の危険性
(この場合は延焼の危険性)がある以上
放火は犯罪として類型化しなければならないのです。
だから放火はれっきとした犯罪なわけです。
それだけです。
失礼しました。
  1. 2005/11/21(月) 09:05:13 |
  2. URL |
  3. sk #szJJAa9.
  4. [ 編集]

仏罰?

skさん、ご教示ありがとうございます。
言われてみればなるほどなんですが、「危険犯」ということには思いいたりませんでした。
ただ、この危険犯あるいは非現住建造物放火という概念、実定法上の概念としては充分理解できるのですが、それが自然法にてらした場合も犯罪といえるかどうかは、やはり微妙ではないでしょうか?
(今日、市川崑監督の映画『炎上』をみたら、そのなかでは「仏罰」といってましたね。この場合、主人公は仏になりかわって聚閣<『炎上』における金閣寺のこと>を燃やしたということになりますが、私にはむしろ、この方がしっくりきます。)

いずれにしても、金閣寺への放火が明確に自然法に抵触する犯罪とは異なるために、それにいたる描写がとても難しいのではないかと思います。
  1. 2005/11/21(月) 13:36:59 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

はじめまして☆
以前『TAKESHIS'』でTBさせていただいた者です。コメントまでいただき有難うございました(^^)

三島作品は高校時代に一度だけ読んだ『金閣寺』と柳田國男の『遠野物語』への小考察、後は美輪明宏や横尾忠則らの作品との絡みで触れた程度の経験しかない状況で感想を述べてしまいます、スミマセン(><;)

高校生当時(4年前ですね)、何の先入観もなく読んだきりの感想…というか感覚だけでいえば、この作品を犯罪心理小説、と捉えはしなかったように思います。金閣寺が美であるかどうかもこの際問題ではないのだろう、と。
>もしかすると、作品『金閣寺』における放火は、あくまでも観念上の行為だからだろうか?
と述べられているように、『金閣寺』という自己内部の虚構(巨塔、でもいいかも)を破壊するまでのプロセスの積み重ねだと当事直観した覚えがあります。

放火行動の契機となる具体的な意識の飛躍が描写されていないとのご指摘ですが、確かにそういった部分は抜けていたか意図的に隠されていたか…ああ、やはりもう一度精読しなければダメですね(^^;)ただ予想するに、先に述べた柳田國男の文章を指して彼は、物語の中で「炭取がまわる瞬間」、その一事象のさりげない描写により世界が蝶番を介して転換する瞬間の重要性を指摘しています。
もしかすると膨大な仕掛け、前フリの中にその契機が緩やかに潜んでいる気がします。
もしくは具体的契機など必要ないという意図かも??もしそうであるならばそれを無意識と呼ぶのは多少性急かもしれません。

・・・書きながら考えてしまったので支離滅裂な文になってしまいました。申し訳ありません(;;)
lunatiqueさんの文章は普段見落としがちな視点を丁寧に拾って提示して下さるような気がしてとても興味深く読ませていただいてます。また遊びに参りますので宜しくお願いいたします(^^)/
  1. 2005/12/09(金) 12:13:29 |
  2. URL |
  3. meke #CMGimg/Y
  4. [ 編集]

三島を評価する判断基準

mekeさん、こんにちは。
『金閣寺』のことは、このブログでももう一度とりあげたいと思っていますから、細かいことはそのおりにでも(コメント・スペースは狭くて文字制限があるので、思っていることがなかなか書ききれません)。

で、ちょっと視点をずらしてみますが、三島に近い世代で私がもっとも好きな作家は、実は加賀乙彦(昭和4年生)なのです。ですから、三島のことも、頭のなかでつい加賀乙彦と比較してしまいます。
加賀乙彦にも強烈な戦争体験があるわけですが(彼は陸軍幼年学校の生徒として終戦を迎えた)、終戦後の彼の歩みは、三島とは全然違います(加賀はいったん精神科医になってから小説を書きはじめる)。それと、当然のことながら作風も全然違います。たとえば、加賀乙彦の長編処女作『フランドルの冬』(昭和42年)を読むと、これを書かずにいられないという内的必然性がひしひしと伝わってくるのですが、『金閣寺』を含め、三島の作品からは、私はそういう感じを受けないのです。ですから、なんというか、『金閣寺』という作品がいいという場合、なにをもっていいとするのか、その判断基準が自分のなかにないという感じなんですね。
考えてみると、三島は十代に小説を書き始めてるわけですから、「このことについて書きたい」という感じじゃないんですね。それで私なんかは、三島の作品を前にして当惑してしまうわけです。
  1. 2005/12/10(土) 09:57:58 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

行為と認識

はじめまして。

僕は読んだことのある小説といえば、勿論、「金閣寺」と夢野久作の「ドグラマグラ」と花村満月の「ぢんぢんぢん」太宰治の「人間失格」ぐらいしかありませんが、そんな中でも「金閣寺」というすばらしい本に出合えたので、コメントいたしました。

僕は、絵を描くんですが、その上で金閣が美なのか、金閣放火が人間的に犯罪なのかという大まかなことは語れませんが、芸術や美術という世界のなかでやはり「行為と認識」というものは混在しているもののように思います。芸術だけではなく社会的な人間関係の中にも「認識と行為」というものはひしめいていると思います。認識したがる客に対してそれを不可能な状態にさせようとする画家、でも結局は画家も認識できない客を認識したい。自分だけが認識できるものであるという認識。一種の認識地獄みたいなことを永遠に繰り返そうとしている。
ではなくて、描くという行為自体に意味がある。絵を描いていること自体が芸術。音楽やダンスのようなものはこれに属しているような気がします。
「金閣寺」の主人公は自分独りの力で金閣を炎上させること自体が美だと捉え火を放ちそして最後にはやはり自らの目で認識した。行為自体が美だと捉えるのはやはり容易なことではない気がします。
グラフティアート(落書き)などをやっている者たちは、この「金閣寺」の主人公に近い心理だとおもいます。身近にいるからよくわかるんです。
何でもいいんです、何でもいいからこそ自分に接点があるものを選び、考えて、行うのだと思います。


ど素人の不束者が長々とすいませんでした。
  1. 2006/01/08(日) 07:42:58 |
  2. URL |
  3. ysk #-
  4. [ 編集]

いろいろな読み方を可能にする『金閣寺』

yskさん、ようこそ。
小説でも絵画でも、そして映画でも、芸術作品は学術論文などと異なり、いろいろな読み方が可能だと思います。『金閣寺』に対する私の読み方は、そうしたいろいろな読み方の一つですし、またyskさんの読み方もその一つで、一つの作品に対し、いろいろな読み方があっていいのではないでしょうか。
「芸術や美術」を問題にする場合、とりわけ価値観(評価)がわかれると思います。
ただ『金閣寺』の場合、金閣寺は美かどうかという問題と、それを燃やすことはどういう意味をもつのかというもう一つの問題がからんできますよね。金閣寺そのものは美かという問題と、金閣寺を燃やすことは社会的に許されるのかという問題は、いちおう別に考えた方がいいのではないでしょうか。
また、犯罪心理という面から考える場合は逆に、実際の金閣寺放火犯がなぜ放火したのかという問題は放火犯の美意識とは切り離して考えた方がいいのではないでしょうか。
要するに、どもりと美意識と放火を結び付けたのは三島の独創だと思いますが、それは事実としての金閣寺放火事件とは無縁のものではないかという気が私はします。
ただ、金閣寺を燃やすこと自体が芸術行為であり美であるという捉え方、三島はしていないのではないでしょうか。そういう考え方もあるかもしれませんが、それは『金閣寺』という作品とは少し違う問題ではないかという気がします。
(本を読むのに素人もプロも関係ないと思います。これを機にまたいろいろお話ししましょう。)
  1. 2006/01/10(火) 15:29:42 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

ひたすら燃やすためにつくる。

yskさんのコメントに刺激されて、とあるものを燃やすことの芸術性ということを考えているうちに、おととしのちょうど今頃、パリで会ったスペイン人の人形作家を思い出しました。
彼の作品は非常にパッショネイトで圧倒されるのですが、そのプロフィールを読んでいたら、若い頃はひたすらお祭りで燃やすための人形をつくっていたというのですね。
その後、彼も燃やすための作品ではなくて残すための作品をつくるようになるのですが、作品のテンションが他の人の作品と全然違う。
作品は永遠に残ると考えるか、作品はその瞬間だけのものと考えるかで、こうも雰囲気が違ってしまうのかと驚きました。
  1. 2006/01/10(火) 15:40:47 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

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