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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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三島由紀夫の書簡を読む:東文彦への書簡

『三島由紀夫 十代書簡集』(新潮文庫)を読み返している。この書簡集は、三島の学習院の先輩で、一緒に『赤絵』という文芸誌を出した同人・東文彦(あずまふみひこ、本名は東タカシ。タカシは行人偏に建、PCソフトにない字のため、この記事では筆名の文彦で統一。)に宛てた昭和15年から昭和18年までの手紙や葉書をおさめたもの(一部、東の母・菊枝宛の書簡がある)。二人の交流は、東が三島の小説に書評をよせたことにはじまり、東が結核で亡くなる昭和18年10月まで続いている。
東文彦は大正9年生。昭和13年に学習院を首席で卒業し、早くから小説を書いていた。病床の東にとって、小説を書くこと(読むこと)、さまざまな人と書簡で交流することは唯一に近い楽しみだったのではないかと考えられ、それだけに三島も、そうした東に真摯にこたえている(ただし東からの書簡は明らかになっていない)。また、三島は自決する直前に東の著作集(『東文彦作品集』、講談社)を編纂、みずからその序文も書いている(昭和45年10月、この記事の末尾を参照のこと)。東文彦に対する三島の思いの深さがわかる。

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(東文彦<新潮文庫>より)

さて、東文彦に宛てた三島の書簡がおもしろいのは、①十代の三島の文学観を直接知ることができる、②後代の三島に強い思想的影響を与えたされる保田与重郎、蓮田善明ら、「日本浪漫派(革命的ロマンティシズム)」に対する三島の生の評価を知ることができる、③戦時下の青春記として読むことができるーーの三点が主なポイントだろう。
もちろん、これら三点は、それぞれが密接に絡み合っているわけだが、②③については別に記すことにして、ここではまず、①の「十代の三島の文学観」に絞って、三島の書簡を読んでみよう。三島と東が文通をはじめた当初の書簡はぎこきなさが目立ち、東が亡くなる昭和18年になって、三島は自己の思いを自由に述べはじめている感がある。

「狐の美感というか、「狐」をとりまく美の世界とその文学に私はかねて関心をもっていますので、自由に本を出版できる地位になったら「狐」という名の古今の典籍を編輯した書物を出すのが、目下の夢です。「お伽草子」「俳文」「浄瑠璃」「近世歌謡」「谷崎の吉野葛」そこに招かれるのはこういうものゝ断片でありましょう。」(昭和18年1月24日)

「「さがしていた本」と申せば、古本屋でやっと「近松半二戯曲集」をみつけ親の仇のようにむしゃぶりついてよんでいます。「のぞけば又も白狐の形、水にありあり有明月、不思議に胸も濁り江の、池の汀にすつくりと、眺め入りて立つたりしが…」とか「思ひにや、焦れて燃ゆる、野辺の狐火小夜更けて、狐火や、狐火野辺の、野辺の狐火小夜更けて、幾重漏れくる爪音は、君を儲けの奥御殿」とか、そういうつまらないような文句が、ふしぎに懐かしくて娯しい。こういうところは一寸理屈では申せません。」(昭和18年3月17日)
:近松半二(1724年~83年)は江戸時代の人形浄瑠璃作者。三島が引用している詞章は、いずれも近松半二作の『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』のクライマックス奥庭狐火の段のもの。ちなみに、人形浄瑠璃用に書かれた近松半二の台本は、他の台本同様、そのまま歌舞伎台本としても用いられ、歌舞伎でも重要なレパートリーとなっている。『本朝廿四孝』のヒロイン八重垣姫は三島が敬愛した中村歌右衛門の当たり役の一つ。
参照「歌舞伎事典」~本朝廿四孝
「淡路人形座」~本朝廿四孝奥庭狐火の段

「「西洋」へ、気持の惹かされることは、決して無理に否定さるべきものではないと思います。真の芸術は芸術家の「おのずからなる姿勢」のみから生まれるものでしょう。近頃近代の超克といい、東洋へかえれ、日本へかえれといわれる。その主唱者は立派な方々ですが、なまじっかの便乗者や尻馬にのった連中の、そここゝにかもし出している雰囲気の汚らしさは、一寸想像のつかぬものがあると思います。我々は日本人である。我々のなかに「日本」がすんでいないはずがない。この信頼によって「おのずから」なる姿勢をお互に大事にしてまいろうではございませんか。」(昭和18年3月24日)

「行詰り…実はこの文学上のデッド・エンドというくせものに私は小説をかきはじめたときから始終頭をぶつけていたようなわけで、その為に私の作品にはどこかに必ずデカダンスがひそむのですが、私は今度の行詰りを自分では別に絶望的とも思っておりません。いまの心境は、書けなくなったらかけなくてもよい(これはまあ一概にヤケッパチからでもないんですが)というところ。しかし貴下のいわれる素朴さは実は私のたった一つの切ない宿願です。それを実現する手段として私は戦争や兵隊を考えています。しかし果して兵隊に行って万葉的素朴さを得られるものか、この点は化学方程式のようなわけにはいきますまいし、今のところ永遠に疑問なのです。それにしても貴下の御忠告と御心やりは今の私には悲しいほど身にしみます。妙なたとえですが、さんざん不埒なことをした不良少年が、物わかりのよい先輩にさとされるような気持とも申せましょう。文学という仕事、これは矢張、つらい死に身の仕事ですね。」(昭和18年4月11日)

「近頃、買った本では、「永福門院」の御歌集、御伝、と注釈の入った本が結構でございました。
 花の上にしばし映ろふ夕づく日入るとしもなしに影消えにけり。
 かげしげき木の下闇のくらき夜に、水の音して水鶏なくなり。
 露しげき草葉の上は静かにてしたには虫の声ぞ乱るゝ。
 などゝいう歌は正に中世の典型ではないでしょうか、こういう歌をよんだ女性は美しくない筈はないと私は確信を以ていうことができます。中世というところには実に貴重な宝石がころがっているように思われます。」(昭和18年6月13日)

:永福門院(1271年~1341年)は鎌倉時代末期の伏見天皇の中宮。永仁6年(1298年)に永福門院の院号を受ける。京極派を代表する歌人の一人。西園寺実兼の長女で西園寺家の別荘であった北山第(現金閣寺)で没。
参照「やまとうた」サイト~永福門院

   *    *   *

十代の三島がけしていわゆる国粋主義者ではなかったこと、いやむしろリベラルな考え方をもっていたことが、これらの書簡から明らかになると思う(それには「デカダンス」の問題がからんでくる?)。また、戦争中の西洋か日本かという思想的選択が、万葉集等の古代の作品に基準をおいて行われる傾向が強かったのに対し、三島は古代偏重を明確に否定し、平安時代、中世、江戸の文芸を重視している。この点は、三島の日本浪漫派に対する評価とも絡んでくるが、日本的な思想・文学に対する三島の軸足がどの辺にあったかを知ることができるという意味で、東文彦宛の書簡は貴重だと思う。
ちなみに、『赤絵』の同人は、三島、東と徳川義恭の三人。『赤絵』創刊号(昭和17年刊)に、三島は『苧菟と瑪耶』『花ざかりの森 序とその一』などを、第二号(昭和18年刊)に『祈りの日記』などを掲載している。『赤絵』は、中心人物であった東の死にともない第二号で廃刊した。

参考:三島由紀夫 『東文彦作品集』序抜粋
東文彦氏の人および作品は、戦争中の文学的青春といふものを思ひ浮かべるときに、まづ真先に私の頭に来る清潔な規範であつた。今とちがつて特効薬もない結核の病床にあつて、仰臥したままの姿勢で書かれた透明な作品の数々、私と交はした多くの文学的書簡、そしてつひに来たその死、すべては戦争中の純化された思ひ出とつながつている。
(中略)
「赤絵」には、戦争の影は一片も射してはゐなかつた。あれほど非政治的な季節を今の青少年は想像してみるのもむづかしいにちがひない。文学は純粋培養されるものだといふ自明の前提があり、反抗も声高な叫びも、いや、逃避さへもなかつた。何から何へ向つて遁れようといる意志すらなくて、われわれは或る別の時間を生きてゐたのである。そして死が、たえず深い木洩れ日のやうにわれわれの頭上にさやいでゐた。
(中略)
静けさ自体が反時代的であるやうな時代には、微妙な心理、「不急不用」の感情を描くことすら、反時代的であつた。戦ふ者の慰藉が有用視されたのもつかのま、慰藉でさへ、「不急不用」になつた。この時代に自由だつたのは、病人と子供だけだつた。しかしそれは、遊び相手もゐない、苦痛に充ちた、孤独な、荒涼たる自由だつた。
(中略)
私は今の若い読者が、自分と同年配の青年が戦時中いかに生きいかに死んだかに、興味を寄せてゐることを知つてゐる。そこには多くの壮烈なヒロイズムの例証があつた。同時に、もつと静かな、もつと苦痛に充ちた、もつと目立たないヒロイズムもあつたことを知つてもらはねばならない。
明るい面持で、少女について語り、いささかの感傷もなしに、少年期について語り、感情の均衡を破ることなしに、人間の日常について語ること、それも亦、あの時代にはとりわけ貴重なヒロイズムだつた。
現在の芸術全般には、あまりにも「静けさ」が欠けてゐる。私は静けさの欠如こそ、ヒロイズムの欠如の顕著な兆候ではないか、と考へる者である。戦時中の病める一青年作家が書いたこの静かな作品集が、必ずや現代の青少年の魂の底から、埋もれてゐた何ものかを掘り起す機縁になることを、私は信ずる。
(昭和45年10月25日)
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テーマ:本の紹介 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2005/12/13(火) 14:22:49|
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