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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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三島由紀夫の演劇作法とチェーホフ、『メゾン・ド・ヒミコ』

すぐ下の記事にも書いたように、昨晩は青山吉良さんと会い、久しぶりに『メゾン・ド・ヒミコ』の話をしたが、最近読んだばかりの『対談・人間と文学』(中村光夫、三島由紀夫、講談社文芸文庫)のなかのチェーホフ論、なかでもチェーホフ劇には対話がないというくだりが『メゾン・ド・ヒミコ』の作法を語っているようで、私の方からは、なにか、そのようなことを話した。このくだりは演劇(対話)に対する三島の考え方を示すものとしてもおもしろいと思うので、以下、当該箇所を抜き出しておく。

中村 久保田(万太郎)さんの場合になぜ近代劇が成り立たなかったかーーといっては悪いけれども、ぼくは成り立ってないと思うんだ。チェーホフとまるでちがうね。
三島 チェーホフはぼくが思うのに、それまでの芝居は、コミュニケーションの断絶から出発してどうしても対話をしなければならない、そういう式が成立するという考えが二千年近く続いてきた。チェーホフは、そんな対話をするのはやめようじゃないか、断絶なら断絶で並べていけばそれでおのずから劇が設立するということでやった人でしょう。だからチェーホフの場合にはモノローグが羅列されている。あれはチェーホフの独創でしょうね。日本の芝居はあれが中心になって、あれが日本の新劇の伝統になっちゃった。
中村 それはそうだ。そうすると、あなたの場合には、ダイヤローグが成り立つということはモノローグの羅列とはちがうんでしょう。
三島 ぼくはモノローグの羅列は絶対認めない。だからチェーホフの反対です。つまり断絶したところからどうしても対話する。そうでなければドラマは成立しないという考え方です。
中村 それはそうです。たとえばお金を借りようとか、女を取り返そうとか、そういうお互いの利害のあるところで劇がはじまる。
三島 ぼくはそれは模範的な劇理念だと思います。チェーホフが日本に受けいれられやすかったのはそこですが、チェーホフにおいてはコミュニケーションの断絶したモノローグの羅列であるものが、日本においてはコミュニケーション内部の会話になっちゃった。そこに日本独特のねばついた心理主義が入り、ごく普通のリアリズムになって、それが日本でチェーホフが迎えられた原因です。ですから久保田さんとチェーホフの見分けがつかなくなっちゃった。
中村 チェーホフはそこがちがうんだけどもな。
三島 イプセンはほんとうは日本ではわかりにくい芝居だと思う。
(『対談・人間と文学』<講談社文芸文庫>106-7頁、昭和42年8月17日の中村光夫との対談)

参考:「ほら貝」サイト~久保田万太郎

つまり、チェーホフ劇は断絶したモノローグの羅列だという図式が、私には『メゾン・ド・ヒミコ』の作法に通ずるように思われるのである。そしてそれはイプセン的な対話劇を「劇」とする見方からすれば、少しも劇的ではないということにもなる(三島は、イプセンは日本ではわかりにくいと指摘しているが、この対談から約40年たって、そのあたりの状況は少し変化しているのではないかと思う)。また、『メゾン・ド・ヒミコ』のすばらしさは、そのモノローグの羅列を、三島がいうところの「コミュニケーション内部の会話」にしなかったというところにあるだろう。いずれにしても、『メゾン・ド・ヒミコ』は、三島的なドラマツルギーの対極にあるような作品だと思う。

ところで三島は、昭和23年に処女戯曲『火宅』を書いた当時をふりかえって、次のように記してもいる。
「戯曲を書こうとしてはじめて私には小説の有難味がわかったのであるが、描写や叙述がいかに小説を書き易くしているか、会話だけですべてを浮き上がらせ表現することがいかに難事であるか、私は四百字一枚をセリフで埋めるのすら、おそろしくて出来なかった。
 第一、小説の会話はどちらかといえば不要な部分であり、(もちろんドストエフスキーのような例外もあるが)、不要でなくても、写実的技巧を見せるためだけのものであることが多いのに、戯曲はセリフがすべてであり、すでに私が能や歌舞伎から学んだように、そのセリフは様式を持っていなければならぬ。」(『私の遍歴時代』、「私の遍歴時代」<ちくま文庫>所収、132頁)

この短い文章からも、三島の演劇観(演劇作法)、小説観(小説作法)が垣間見られるのだが、そこで私が違和感を感じるのは、はたして「小説の会話はどちらかといえば不要な部分」もしくは「写実的技巧を見せるためだけのもの」なのかということだ。つまり、三島の小説を読んで感じるのは、会話をそれだけポンと即物的に書いてくれればありがたいのに、その言葉を語りながら誰それはこう感じたとか、ああ思ったといったまわりくどい説明が多くわずらわしいということだ。これは感覚の相違といってしまえばそれだけのことなのだが。
(例:「貴様はきっとひどく欲張りなんだ。欲張りは往々悲しげな様子をしているよ。貴様はこれ以上、何が欲しいんだい」「何か決定的なもの。それが何だかはわからない」とこの非常に美しい、何事も未決定な若者は倦そうに答えた。こんなに親しくしていながら、彼のわがままな心には、時々、本多の犀利な分析力と、その口ぶりの確信的な、「有為な青年」ぶりとが、煩わしく感じられた。」<『春の雪』新潮文庫版25-6頁>)
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テーマ:演劇 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2005/12/19(月) 13:46:17|
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