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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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ブルーノ・ワルターのモーツァルト演奏に思う

昨日はモーツァルト生誕250周年の記念日だったとか。それにあやかったわけではないが、このところモーツァルト(とブラームス)ばかり聴いている。
1月8日の記事にも書いたが、私がモーツァルトの音楽をじっくり聴きだしたのは、ブルーノ・ワルターが指揮するニューヨーク・フィルの演奏(1950年代のモノラル録音)による。その後、私の嗜好はオットー・クレンペラーに移り、ブルーノ・ワルターの演奏は長い間聴いていなかった。
ところでここにきて、私が集中的に聴いているのは、ブルーノ・ワルター晩年のステレオ録音の演奏(オーケストラはブルーノ・ワルターの録音用に特別編成されたコロンビア交響楽団)。実はブルーノ・ワルターのステレオ録音は、私にとって初体験となるのだが、これが予想外にいい演奏でとても驚いている。
ブルーノ・ワルターのステレオ録音のモーツァルトのすばらしい点は、ひとつひとつの音の輪郭が非常に明確であるということ。私のイメージのなかでは、ブルーノ・ワルターは音のつぶだちにはさほどこだわらず、曲全体を雰囲気で大きくまとめる古いタイプの指揮者という感じがあったので、このことは、自分としてはとても大きな発見だ。
また、ブルーノ・ワルターというと、独特のテンポのゆれや思い入れ、演奏中の突然の停止などが強調されるが、今聴いてみてその点はさほど気にならない。もちろん彼の演奏は現在主流となっている演奏スタイルとはまったく異なるのだが、ブルーノ・ワルターが自分のスタイルに自信をもって演奏しているのがひしひし伝わってくるので、これはこれで非常に説得力があるし、演奏としての完成度が非常に高い。ちなみに、かつて私が愛聴していたニューヨーク・フィルとのモノラル録音も廉価版で簡単に手にはいるので、こちらも聴き直してみたが、これはこれで覇気のみなぎるいい演奏だが、ステレオ録音の透明さも私としては捨てがたい感じだ。
そんなさなか渋谷のHMVを覗いたところ、バーゲンセールでさまざまなCDが安売りされていたので、ブルーノ・ワルターとの比較という意味で、カラヤンが1970年代にベルリン・フィルを指揮したモーツァルト六大交響曲のCDも購入し(こちらは2枚組のCDに6曲はいってなんと990円!)、双方を聴きくらべてみた。こちらも、私としてははじめて聴く録音だ。
ちなみにカラヤンという指揮者、私はけして嫌いではないのだが、このモーツァルトには驚いた。というのは、カラヤンといえば、ブルーノ・ワルター以上に音の美感にこだわるという印象があるのだが、ブルーノ・ワルターを聴いたあとでカラヤンの演奏を聴くと、天下のベルリン・フィルの音色がどんよりと濁ってきこえるのだ。これはなんとしたことだろう。
そこでまたいろいろ考え込んでしまったのだが、実は、ブルーノ・ワルターとクレンペラーの演奏は、主観的と客観的ということである意味対極にあるようにみえながら、音に対するこだわりという点ではかなり近いところに位置しているのではないかということ。二人の演奏では、オーケストラが明るい響きでよく鳴っている。その響きのうえに、それぞれの個性や解釈が打ち出されている。この二人の演奏では、曲に対する解釈が優先して響きが犠牲にされるということはまずない。また、そうでなければモーツァルトは演奏できないと思う。
日本では、クラシック音楽の演奏評というと、まず、主観的(演奏中にテンポを動かす)か客観的(イン・テンポで演奏する)かで、評価が大きく二分され(フルトヴェングラー、ブルーノ・ワルターは主観派、トスカニーニ、クレンペラー、セル、カラヤンらは客観派)、今度は、それぞれの派の中が基本テンポが速いか遅いかでまた細分される。これからすれば、トスカニーニやセルは客観的で早く、クレンペラーは客観的で遅いというわけだ。しかしこの二分法なり四分法による演奏評価(分類法)、絶対的なものかどうか、私はかなり怪しいと思う。たとえば、この分類法のなかには、音色や楽器のバランスははいってこないのだが、これらはテンポ設定以上に重要な要素なのではないだろうか。
つまり、ブルーノ・ワルターもクレンペラーも、演奏するうえで、まずはオーケストラの音色や楽器のバランスに配慮し、そのうえで曲に対する解釈や自己表現があると考えていたのではないだろうか。だから、インテンポ(クレンペラー)かテンポが揺れる(ブルーノ・ワルター)かは、本質的な対立点とはならず、テンポが速いか遅いかもさほど問題にならないのだと思う。ちなみに、クレンペラーの初期の演奏は、晩年の演奏からは考えられないような早いテンポで、ぶっきらぼうにきこえるようなものが多い。またクレンペラー晩年の演奏も、個人的な好悪や体調でテンポを遅くしているのではなく、細部まで浮かび上がるような明晰な音で演奏したいという要求が、テンポに反映しているのだと思う。だからクレンペラーの演奏は、どんなにテンポを遅くしても緊張感を失うことがない。またいわゆる客観的演奏ということに関しても、クレンペラーはそのようなものをめざして演奏していたわけではなく、個々の音をきちんと響かせることを優先しながら演奏した結果が、いわゆる客観的演奏という範疇にはいるものになったというだけだと思う。
より具体的にモーツァルトの演奏でいうと、クレンペラー、ブルーノ・ワルターの演奏がカラヤンの演奏より基本テンポが遅いのは事実だと思うが、一般的に、クレンペラー、ブルーノ・ワルターは、第二楽章のアンダンテは非常にゆっくり演奏するが、第三楽章のメヌエットは意外に早く、このテンポ設定は二人に共通している。これに対し、カラヤンの演奏は、第二楽章が早く、第三楽章が極めて遅い。だから、早い演奏、遅い演奏といっても、相対的なものに過ぎないのだ。
さてその先だが、とりあえずは、ブルーノ・ワルター、クレンペラーそしてセルにも共通する明晰な音色への指向は、もしかすると彼らのユダヤ性と関連しているのかと漠然と考えている。彼らに比べると、フルトヴェングラー、カラヤンそしてベームは、個々の音にさほど拘泥せず、ともかく音楽を前に進めようとする指向性で共通しているともいえる。もしかすると、カラヤンやベームは、フルトヴェングラーの若い対抗者として楽壇に登場しながら基本的にフルトヴェングラーと同じ指向性をもっていたがゆえにフルトヴェングラーを超えることができなかったのではないだろうか。
ところで、ある曲を演奏することはある曲を解釈することだ、したがって演奏の善し悪しとは解釈の善し悪しのことだという考え方が、音楽評のなかで絶対的なように思えるが、果たしてこの考え方は唯一無二のものなのだろうか。ブルーノ・ワルターやクレンペラーの演奏は、そうした考え方へのアンチテーゼをも含んでいるのではないだろうか。
結論を急がずに、彼らの演奏をまたじっくり聴きこんでみたい。
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テーマ:クラシック音楽 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/01/28(土) 23:52:56|
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  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1
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  1. 2006/01/30(月) 14:32:13 |
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