le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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クレンペラーの演奏と時代性

1月19日付けの記事「渋谷の画廊・美蕾樹の企画展と新年会」へのsea1900さんのコメント(感想)がおもしろかったので、そのフォーマットをお借りして、クラシック音楽の演奏評がどのようなものであるべきか少し考えてみたい。Sea1900さんのフォーマットのどこがおもしろいかというと、一般的な演奏評もこのやり方できちんと分類できてしまうからだ。
たとえば、晩年のブルーノ・ワルターやクレンペラーの演奏は、概して非常に遅いテンポのものが多いのだが、そうしたテンポ設定に関して、

 A「遅い演奏」-①「重厚だ!」
 A「遅い演奏」-②「なんかかったるくて、イヤ」
 B「早い演奏」-①「爽快、現代的だ!」
 B「早い演奏」-②「軽薄なやっちゃ」

というようなことが言えるわけで、これではもう、遅かろうと早かろうと「受け取る側の自由でさァ」と啖呵を切りたくなってしまう。しかし少し待って欲しい。演奏が遅いとか早いとかは特定の曲を聞きこめば誰にでもすぐわかる問題だが、だからといってそこで単に遅いとか早いで終わってしまったのでは紋切り型の感想文であり、演奏評にはならないのではないだろうか。
つまり、ブルーノ・ワルターやクレンペラーの演奏に関して私がいいたいのは、なぜ彼らがそういうテンポを設定するのか考えずに遅いとか早いとかといった速度だけを問題にしていると、それは結局、嗜好性の問題になってしまうのではないかということ。演奏評や演奏論というのはそういう底の浅いものなのだろうか。これはたとえばある人がクレンペラーの演奏を評価するかしないかという問題ではなくて、クレンペラーの演奏がいいという人のなかにも、彼がなぜそういう演奏するのかを考えずに、「重厚だから好き」といった評価をする人がいるからだ。これでは完全に「贔屓のひき倒し」になってしまうと思う(そうした評価をする人たちの多くは、ブルーノ・ワルターやクレンペラーがたまたま早いテンポの演奏をすると、今度は「らしくない」で片付けてしまう)。
目についた例でいうと、東芝EMIから発売されているクレンペラー指揮のモーツァルト交響曲第35・40・41番の解説書のなかで、歌崎和彦氏は、この演奏を「いかにもこの巨匠らしく作品を大きく巨視的に掴みとり、その音楽を強い筆致と妥協のない表現によって巨細に描ききった演奏」と評しているのだが、いくらもっともらしいかろうと、こうした書き方に私は納得できない。歌崎氏の文章からは、クレンペラーが音楽の細部に少しも拘泥していないようにとれるのだが、それは逆であり、クレンペラーほど音楽の細部にこだわる指揮者はほとんどいないと私は考えている。このモーツァルト演奏にもそうした一つ一つの音に対するこだわりはいかんなく発揮されており、クレンペラーのモーツァルト演奏がおもしろいのは、そうした細部へのこだわりが、あたかも点描主義の絵画のように徹底しているからだ。クレンペラーは、音楽を安易に流すことをけしてしない。またこうした几帳面なこだわりをいかそうとするとき、テンポ設定は必然的に遅くなる(第40番でいうと、終楽章の前進することを拒否したような「遅い」テンポ設定が、クレンペラーの主張を伝えて非常に雄弁だ)。
こうしたクレンペラーの演奏が、一部の人には「うどの大木のような大味な演奏をする」と酷評されるのだが、歌崎氏が書いているのは、そうした反クレンペラーの論者が言っていることと結局同じだと思う。(上掲フォーマットでいえば、両者はA①とA②のパターンのあいだで自分の好みを述べているに過ぎないのではないだろうか)。しかしこのような事態が生じるのは、実は、クレンペラーの音楽に対するこだわり方が、ある種の人には少しもこだわりには聞こえないという難しい問題点をはらんでいるからなのだが、クレンペラーを論じるならばそうした核心にこそ迫らなくてはならないと思う。
ところで、畑中良輔氏は、かつてクレンペラーのバッハ演奏を「反時代的」と評したが、こうした論点ならば私もうなづける。つまり、クレンペラーはいたずらに現代的(時代迎合的)演奏をめざしたのでも、その逆の伝統的(没価値的&伝統墨守的)演奏をめざしたのでもなく、その両者を一刀両断のもと切り捨てようとする。いやもしかすると、クレンペラーは、その演奏が現代的か伝統的かといった価値判断にはまったく無関心だったのではないかとも思う。だからクレンペラー演奏は、聴き方によってものすごく現代的にもきこえるし、保守的にもきこえる。クレンペラーのテンポ設定や細部表現は、彼がいたずらに「巨匠的」であろうとしたことからきているのではなく、表層的な現代性とも伝統性とも無縁な、文字通り「反時代的」としかいいようのない表現をめざしたところからきているのだと思う。
これは、モーツァルトやバッハの演奏に限らないのだが、クレンペラーは音楽演奏に音の明晰さを強く求める。その追求の激しさが、私には、この人はストラヴィンスキーの時代を経過してきた人なのだなという一種の新しさ、モダニズムといったものを強く感じさせるのだが、考えてみれば音楽演奏において音の明晰さを求めるということは、音楽の本質とかかわることだと思う。だから、音の明晰さに強くこだわる限り、クレンペラーの演奏は常に本質的な演奏であるともいえる。
バッハでいえば、たとえばカール・リヒターの演奏は、曲の中の特定の部分を強調して音楽にメリハリをつけていこうとするのだが、クレンペラーの演奏にはそうしたメリハリをつけようという方向性はまったくない。ただひたすら音にこだわるのだ。だから、リヒターの演奏(解釈)を現代的というならば、クレンペラーは少しも現代的ではないことになってしまう(「うどの大木的」<笑>)。
ところでおもしろいことに、クレンペラーの演奏は、その精神性の高さゆえにバッハやベートーヴェンがいいという人がいると同時に、ベルリオーズやメンデルスゾーンなどのちょっと世俗的な音楽がいいという人も多く、しばしば入門者をとまどわせる。しかしこうしたいささか分裂症的な評価のなかにもクレンペラーの演奏の特徴はみごとに示されているのであって、クレンペラーのベルリオーズやメンデルスゾーンがいいというのは、ひたすら音の美感を求めるその演奏が、ベルリオーズやメンデルスゾーンなどの音響主義的な音楽に合致する部分があるからだと思う。
なにやら脱線気味の記事になりつつあるが、要はクレンペラーのモーツァルトはひたすら美しい。そのひたすら美しいという事実は、ある意味「バロック(いびつ)」でもある。だからこれは、口当たりのいいモーツァルト演奏でだけはけしてない。
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テーマ:クラシック音楽 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/02/08(水) 12:32:50|
  2. クラシック音楽
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:5
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コメント

mozart/symphony no.25no.38no.39The philharmonia orchestra,Otto Klempererを聞いていますが、Ottoの波乱万丈な人生が何処に凝縮されていたのか?と思います。
全体的に漂う強い生命力なのか、或いは、細部まで行き届いた音色にあるのかと思うと、単に綺麗な曲と言う枠を飛び越えてしまいます。
  1. 2006/02/09(木) 17:19:43 |
  2. URL |
  3. sea1900 #-
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クレンペラーのユダヤ性

クレンペラー、ブルーノ・ワルター、セル、彼らは皆ユダヤ人であり、それゆえ第二次世界大戦中にアメリカに亡命せざるを得ないわけですが、その彼らの演奏が、主観主義とか客観主義の枠を超えて音楽の美感に訴えるものであったということには、やはり一つの意味があったのではないでしょうか。
  1. 2006/02/12(日) 16:52:28 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
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クレンペラーの狂気

lunatiqueさん、はじめまして。非常に面白く、また貴重な文章を読ませていただきました。

クレンペラーの演奏には、刀の歯の上を歩いているような危うさがあります。そして、時には乱暴なんじゃないかとも思えるようなこともあります。その先をちょっと越えると、演奏としては完全に破綻してしまうようなものを感じさせます。でも、彼の演奏は楽譜通りです。とにかく楽譜に忠実です。演出は感じられません。一般的には評価の低い「フィガロの結婚」の演奏はクレンペラーの美しさの最たるものです。そして、その中にもやはり狂気を感じます。
  1. 2006/02/13(月) 22:44:28 |
  2. URL |
  3. オペラハウス #-
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クレンペラー演奏における美の所在

オペラハウスさん、はじめまして&ようこそ。
クレンペラーの演奏ならば何でもいいといっても(笑)、彼が残した録音のなかでもどうしてもこれははずせないというものいくつかありますよね。私にとって、彼の『フィガロの結婚』は、そうした希有な録音の一つで、クレンペラーを聴きだした最初の頃、この演奏によって彼のめざすところが明確につかめ、感動しました。
この演奏については、別記事でくわしくとりあげてみたいと思いますが、そのすごさを私なりに端的に言うと、この演奏、どんな演出にもあうようなものではなく、演出をすごく選ぶのですね。要は、クレンペラーが要求している演出は、特定の部分や人物にスポットライトをあてて強調するという「通常の」ものではなく、スポットライトを拒否して最初から最後まで全照明でやるような演出ですね。いわゆる「演出」という行為は、クレンペラーの演奏にまったくそぐわない。
だからオペラハウスさんが書いておられるように、乱暴といえばすごく乱暴だし、ある種の危うさがあるともいえる。普通の感覚からすれば、これはとてもバランスの悪い演奏ですよね。音楽のバランスを意図的に突き崩しているようなところがある。
ただ、だからといってクレンペラーは美の破壊者かというとそうではなくて、オペラハウスさんが書いておられるように、彼の演奏はとても美しい。耽美的といってもいいくらい。要するに、クレンペラーの考える音楽の美感というのは、通常「美」と考えられているものを一端根底から突き崩したところに存在しているのだと思います。
  1. 2006/02/14(火) 14:35:05 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
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バランスの悪さ

lunatiqueさん、私のブログへの訪問感謝です。私のブログの性格上、コメントは頂けないのではないかと思っていましたが、コメントまで頂きまして有難うございました。

左側が大きくなってしまったのは、何なんでしょうね。私はどちらかというと、パソコン音痴の方ですので分かりません。

私のオペラを理解していただけるかと思いまして、別のURLを貼っておきます。これは、私が所属している団体の公式ページです。クレンペラーとは何の関係もありませんが、こういう団体もあるんだという事を宣伝も兼ねて理解していただければ有難いです。

さて、クレンペラーの「フィガロの結婚」ですが、大体、このCDを持っている人自体がそんなに多くは無いでしょうし、繰り返し聴いているとなると極端に少なくなりますね。でも、この録音は素晴らしいです。美しさも抜きん出ていますが、全編に「優しさ」と「愛」が溢れています。このオペラの重要なテーマの一つに「愛」がありますが、クレンペラー演奏の愛は何に対する愛なのかが私にはまだ分析できていません。lunatiqueさんの記事を、楽しみに待ちたいと思います。
  1. 2006/02/14(火) 17:53:15 |
  2. URL |
  3. オペラハウス #-
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