le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

すぐれた和歌とは?ーー定家と西行を例に考える

いい和歌、すぐれた和歌とはなんなのだろう。和歌の評価、歌人の評価について、私なりに少し考えてみた。といっても、私は、『万葉集』から現代まですべての和歌に目をとおしているわけではないし、登場人物がふえると話がややこしくなるので、ここでは、ともに『新古今』を代表するとされる定家と西行を例にとって考えてみる。

   *    *    *

まず西行だが、実はこの人の歌、個人的にはいいと思ったことが全然ない。ただ、これは「現代人」であるlunatiqueの行う「現代的」評価であるかもしれず、これに対しては、西行の歌は現実に『新古今』に一番多くとられており、西行は『新古今』を代表する歌人ではないか、現代と院政期では和歌に対する考え方が違うのだという反論がまず予想される。
これに対しては、私としても簡単に言って二つの再反論があるわけで、①勅撰集に一番多く歌が採られるのは歌人にとって非常な名誉であるが、それだけに競望も激しく、結局は故人をトップに撰ぶ例が多い(院政期の勅撰集でいうと、後拾遺和歌集の和泉式部、詞花和歌集の曽祢好忠、、千載和歌集の源俊頼はすべて編纂当時故人。金葉和歌集の源俊頼<=撰者>のみ例外)。もちろん、西行は『新古今』編纂当時故人。ちなみに、西行の次は、慈円、九条良経(この二人は伯父・甥)と続くが、このどちらがトップになっても九条家(=摂関家)重視という政治臭が出てしまう、②西行の歌は、勅撰集の核ともいえる四季の部、恋の部には少なく、雑の部に多い。逆にいうと、雑の部は秀歌が少ないので、人為的に穴埋め、てこ入れしなくてはならないが、ここに西行の歌が数多く入っている。ちなみに、慈円の歌も雑の部入集が多く、これは慈円の歌を多く入れるための政治的配慮と考えられるーーがその二つだ。要するに私としては、勅撰集の入集歌数とその歌人への同時代の評価はある程度一致するが完全に一致するわけではないといいたい。
そこで西行派からあらためて提出されることが予想される反論としては、純粋に和歌の問題にたちかえって、西行の歌は彼の生き方を反映した歌だが、定家の歌は人工的で定家の実人生を反映していない。定家の歌は虚であり、価値が低いというものがあると思う。
ただこの反論、私からすると、院政期の和歌のなかに知らずしらずのうちに近代的芸術論をもちこんだもので、院政期和歌を論じるときにストレートには採用しがたいと思う。つまり私としては、「和歌は詠み手の人生を反映しなくてはならない」とか「詠み手の人生を反映しない和歌は価値が低い」というような価値基準は誰が決めたのかといいたい。
したがって、そうした「反映論」によって歌の価値を論じるのではなく、院政期の和歌に関して重要だと思うのは、その多くがあらかじめ題を決めてからそれにあわせて詠む題詠だということ、したがって、和歌とは歌人の人生をもりこむ器ではなくて、題をいかにうまく読みこなすかという技術競争なのだということだ(夏でも冬の歌を詠まなくてならないし、恋をしたことがなくても恋の歌を詠まなくてはならない)。この点において、定家という人は、明らかに時代の頂点に立っている。
それと、和歌と詠み手の関係(反映)ということに関しては、定家の側からも若干の反論があり、定家の歌を強力に支持したした人の一人である慈円が、当時、「速詠」を流行させている。この速詠というのは、文字通り素早く和歌を詠むことで、一時とか一日といった限られた時間のなかで百首歌を詠むことを定家らにさかんに勧進する。これはどういうことかというと、時間をかけて歌を詠むと、そこにいろいろな作為が入り込んでしまうが、時間制限があると作為を入れようがないので、「自然な」歌ができるという主張だ(この主張、私はダダイズムの主張に似ていると思う)。慈円はこれを信仰の立場から提案するのだが、定家にもその提案に応じた和歌が多い。要するに、作品にその人が反映しているかどうかというのは、単純には論じられないということだ。
さて、西行と定家の問題(=院政期和歌をどのように評価するかという問題)に立ち返れば、これは、実は個々の歌人の評価や個々の作品の評価の問題ではなくて、私は、題詠さらには慈円が提起した速詠といった、いわば「和歌の装置」をどのように評価するのかという問題だと思っている。したがってこれは、純粋に文学的というよりは、やはり歴史的問題ではある。
そのうえで、この歴史的問題は、個の反映を核にして成立している近代文学に対する強烈なアンチテーゼとなりうるという意味で、強い現代性をもっていると考えている。
スポンサーサイト

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/02/11(土) 01:44:20|
  2. 和歌および古典文学
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3
<<九条家の文芸観と後鳥羽院の文芸観 | ホーム | クレンペラーの演奏と時代性>>

コメント

愚見

おもしろい問題ですね。
富士谷御杖(坂部恵も『仮面の解釈学』で論じている国学者)に言わせると、西行には「実況性」がないという理由で、評価が低いです。つまり、貴殿の言うところの「近代的」な評価基準を共有したうえで、西行はダメだというわけです。その評価基準の是非を言う以前において、見方が分かれてくるわけです。
あと、御杖は、「題詠」であっても、詠み手の「一向心(ひたぶるごころ)」を歌に詠みこむことは可能だと言っています。「題詠」だからといって、その歌詠みを、ドライな技術に還元することはできないでしょう。
もう一点。「速詠」は、いわば技巧の極致なわけですよね。その先に、「自然」な歌がまっているというのは、芸術全般に関して言える深い真理だと思います。いかに、パラドキシカルに思われようとも。
芸術を「個人」にのみ帰属させるのは、確かに愚かしいことですが、一方で、客観的な歴史のうちに位置づけるだけでもダメなわけですよね。「制度・装置・形式」と「一向心(ひたぶるごころ)」の解釈学的な同時生成。そこが、芸術の成立する場ということになりましょうか。
  1. 2006/02/14(火) 10:19:54 |
  2. URL |
  3. ヨシノスケ #-
  4. [ 編集]

二方向からのアプローチの重要性

ヨシノスケさん、貴重な書き込みありがとうございます。富士谷御杖という国文学者、私は知りませんでした。あとで図書館で彼の著作を自分なりに少し調べてみようと思います。
和歌なり、古典芸術を味わうためには、おっしゃるように、それにひたすら向き合うこととその作品が生成された(歴史的な)場を知るということの二つが必要で、そのどちらがかけても真の味読にはならないような気がしています。
(一般論として言えば、日本の芸術鑑賞に欠けているのは、そうした場を知るためのアプローチなのではないでしょうか。)
  1. 2006/02/14(火) 14:07:34 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

当方のブログへのご来訪ありがとうございます。
貴殿のブログ、楽しみにしております。ではまた。
  1. 2006/02/14(火) 21:02:39 |
  2. URL |
  3. ヨシノスケ(Q太郎) #-
  4. [ 編集]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://lunatique.blog20.fc2.com/tb.php/82-69f1b614
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

lunatique

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。