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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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九条家の文芸観と後鳥羽院の文芸観

藤原定家の和歌は、通常、『新古今集』の基調を構成しているとして高く評価されているわけだが、それとは別に、定家の和歌を考えるうえでは、その主家にあたる九条家の動きを無視することができないと思う。
九条家を起こした兼実(1149年-1207年)は、藤原忠通の三男として生まれ、世が世であれば摂関の位をのぞむことができない立場であったが、源平の争乱が、部外者的な立場にあった兼実に摂政の位をもたらす。平氏滅亡の翌文治二年(=1186年)、頼朝の強力な推挙により兼実は摂政の位を射止めたのだ。兼実が摂政となると同時に、九条家ではその子・良経が主催する和歌の催しがさかんになる。これには、朝廷で依然として勢力をふるう後白河院およびその近臣に対し、九条家が独自の文化政策をもっていることを示すという意味があったのだと私は考えている。文治に続く建久年間に良経が企画した公的歌会として、花月百首(建久元年=1190年、九月)、二夜百首(建久元年十二月)、十題百首(建久二年=1191年)、六百番歌合(建久四~五年=1193~4年)があり、それらにはいずれも定家が出詠している(定家の二夜百首は散逸)。
この四度の百首歌、通常の文学史では後鳥羽院による『新古今集』編纂につながるもの、『新古今集』の先駆けと位置づけられている。実際、この四度の百首歌からは、数多くの歌が『新古今集』に取り入れられ、いわゆる新古今的歌風の基調をなしていると考えられるので、それはそれで間違っていないともいえるのだが、私は、花月百首から六百番歌合にいたる百首歌の企画は、院勢力と一線を画した九条家の施政方針もしくは文化政策を和歌において実現したものであり、『新古今集』編纂の企図とは切り離して考えるべきではないかと思っている。
つまり、源通親を核とする院近臣勢力の巻きかえしによって九条家が失脚(建久七年=1196年)したのちに、後鳥羽院が和歌に関心を示しだし、最終的には『新古今集』を編纂するにいたるわけだが、それはあくまで結果からみた話であって、後鳥羽院の意図と良経(九条家)の意図は本来異なるものだったのではないだろうか。
また、これは九条家失脚ということを和歌の歴史からみた意味づけでもあるが、建久七年以降、良経は公的な百首歌を企画しなくなる。たとえば後鳥羽院の伯父・守覚法親王が出てきて、五十首歌による歌会を企画するのは、良経の歌会と後鳥羽院の歌会(後鳥羽院の初度百首主催は正治二年=1200年)のちょうど中間の時期(建久九年=1998年)だ。ちなみに、守覚法親王が企画した五十首歌への出詠者は、守覚法親王自身のほか、実房、隆房、公継、兼宗、俊成、季経、賢清、隆信、有家、定家、家隆、顕昭、禅性、覚延、生蓮、寂蓮といった人々。このうち賢清、禅性、覚延は守覚法親王が差配していた仁和寺の僧だ。蟄居中の良経、慈円はこの企画に参加しえない立場だが、定家は、九条家に変わる新たなパトロンをみつけなくてはならないので、ある意味必死で歌を詠んでいる(守覚法親王の歌会で詠まれた定家の傑作が「大空はうめのにほひに霞つつくもりもはてぬ春の夜の月」)。
良経の歌会、守覚法親王の歌会、後鳥羽院の歌会、これらの歌会のいずれが良い歌を生み出しているかを判断するのは、ある意味で非常に難しいが、それとは別に、守覚法親王、後鳥羽院の歌会と良経の歌会の明確な違いは、良経の歌会のルールが非常に厳しいことにある。具体的には、花月百首は桜の主題と月の主題のみの百首歌、二夜百首は速詠、十題百首は獣や草木などの奇題による百首歌、六百番歌合は恋歌五十首とその他五十首の複合。結局、良経主催の歌会というのは、いい歌を詠むのはもちろんのことだが、どのように詠んでもいいか悪いか評価がわかれてしまう(当時であれば、歌壇には御子左家と六条家の二つの流派があり、双方が主張する秀歌の条件を同時に充たすことは困難)ような歌を詠むということ以前に、難しい課題をこなすことのできる教養を誇るということにもあったのではないだろうか。つまり、定家等の歌がいい歌であるかどうかという価値判断とは別に、九条家に集まった歌人たちが難しい歌を詠んでいるというのは誰にでもすぐわかる。また個々の課題の難易度の問題以前に、良経の歌会は百首歌を前提としているが、守覚法親王の歌会は五十首歌しか要求していない。これは百首歌を詠むということがそれ自体難しいからで、百首歌を詠むことを要求すれば歌会に参加できなくなる人が出てくるであろうということは、明らかだ。つまり、守覚法親王の歌会は、プロ的な厳しさを要求しないうちうちのお楽しみの会だったともいえる。
ところで、教養主義と切り離して純粋にいい歌(秀歌)を詠むという観点は、定家の父・俊成の観点でもあるのだが、九条家の歌会はその俊成をもとりこんでいるので、俊成的な意味で秀歌を詠むという条件と主宰者である九条家が出している教養としての和歌という条件が重なり合っていて、どちらに主眼があるのか判別しにくい。その点からすれば、むしろ守覚法親王の歌会の方が俊成的な歌本位の価値観のうえに成立しているかもしれない。また後鳥羽院主催の歌会も、当初はそうした歌本位のものだったのではないかと思う。しかし後鳥羽院の歌会の場合、そのなかにしだいに、朝廷(院権力)を中心にして日本全体を統べるという後鳥羽院の政治的世界観が投影されてくる。すると歌本位の考え方をする定家は院についていけなくなる…。
話を元に戻れば、そうした後鳥羽院的な歌の世界と良経(九条家)の歌の世界は、政治を中心にして和歌(文芸)を考えるという点で極めて近いところに位置するようで、やはり根本的に違うところをめざしていたのではないかと思う。そしてそれは、結局、両者の政治ヴィジョンもしくは文化ヴィジョンの相違に由来するのではないだろうか。つまり、後白河院や後鳥羽院などの「院」は、従来の家柄や身分にとらわれない新しい人材を登用したり、朝廷文化のなかに今様、田楽、白拍子舞などの新しい要素をどんどん取りこんでいこうとするが、摂関家はそうした新しい要素を排除し、和歌に代表されるような古い文化を時代に合わせてリニューアルしていこうとする。平安時代末期からの院政期の朝廷文化とは、朝廷が一丸となって一つの文化や政治のあり方をめざすのではなく、朝廷そのもののなかにさまざまな価値観が芽生え、朝廷の権力、さらには文化がさまざまに分化していくところに特徴があったのだと私は考えている。

ところで、以上のような朝廷や歌壇の状況をふまえたうえで、西行と『新古今集』の問題を考えると、鎌倉時代初期の人たちがすべて西行の歌を高く評価していたといった表層的な分析とは違う側面が浮かび上がってくる。
上にも書いた院初度百首(正治二年=1200年)と『新古今集』竟宴(完成披露のセレモニー)のあいだには、実際問題としてあまり時間がない。それならばいい勅撰集をつくるために『新古今集』の完成をずらせばいいようなものだが、元久二年(=1205年)という竟宴のタイミングは、『古今集』完成後三百年というタイミングを見計らって定められたものであり、動かしようがない。このように、タイムリミットを定められたうえで勅撰集を編纂しようとすれば、下命者である後鳥羽院主宰の歌会を重視するのは当然のことながら、その直前に行われていた良経主宰の歌会も無視できないということになる。したがって、「花月百首」以下の歌会からも多くの歌がとられる。
すると結果的に、『新古今集』の歌人構成が良経の歌会と非常によく似たものになってしまうのだが、そこで後鳥羽院から出された至上命令(政治課題)が、できが良かろうと悪かろうと九条家とは無縁な西行の歌を大量にとりいれて『新古今集』のトップ歌人を西行とし、後鳥羽院としての独自色を出すということだったのではないだろうか。もちろん、西行は教養主義とは無縁な歌人だ。
いずれにしても、『新古今』のなかの西行の歌は、『新古今集』編纂の(政治的)意図をふまえたうえでもう一度見なおすべきだと私は考えている。
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テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/02/13(月) 00:08:48|
  2. 和歌および古典文学
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  4. | コメント:0
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