le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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藤原定家の法華経題名和歌

藤原定家が良経の命で詠んだ連作和歌をもう一組紹介しておこう。詠んだ正確な年代は不明ながら、これも建久年間の歌と考えてさしつかえないだろう。詞書を読むと、「大将殿(良経)に伺候していたある秋の宵、僧が経をよむのが聞こえたので、その経の文字(なもめうほうれむくゑきやう)を上において秋の歌を詠んだ」とある。この連作は、法華経の宗教的な神秘思想と言葉神秘思想が合体した作品ととらえることができると思う。

 大将殿にて秋の頃よゐの僧の経よむを聞きてれいのこのもじを上におきて秋の歌

 過ぎぬと思うばかりのあさけよりやがて乱るゝ袖の露かな
 とめても秋より外のやどもがなことぞともなき袖や乾くと
 ぐみぬと見ればくれにし春の草風におどろく秋は来にけり
 山もしらぬわかれの袖の上にこずゑもやがて秋のゆふぐれ
 のかなる霧よりをちの秋風やおもふゆくへの竹のひとむら
 つ音も過ぎ行くやどにおくらさで秋のころものそで慕ふなり
 き山の裾野のを田のあき風やなびきし人のはじめなりけむ
 かしをば夢にのみこそあひ見しかたゞそのまゝの袖の月影
 れにけりまたこの秋の花すゝきほのめく霧に霜むすぶまで
 士のたく烟ばかりはさもあらばあれ雲井の月の秋かぜの空
 さきて木の葉もおちぬこれぞこの今年も同じ秋のつれなさ
 すらはでねなまし月は我なれて心づからのつゆのあけぼの
 く紅葉玉ちるせゞの色そめてとなせのたきに秋もとまらず

十三首が、季節の順に初秋から晩秋への配列されているのは定家としては当然のこと。
この連作をとおして個々の歌と全体との関係を考えてみると、個々の歌は「小世界」であり、そうした小世界があつまって上位の大世界(=三千大千世界)を構成するという仏教的世界観とこの和歌はつながっていくのではないだろうか。
また逆に、「な」「も」「め」といった、一見有機的な意味を欠いているかのようにみえる音素のなかに、さらに小さな世界が秘められていることをこの連作は示していると考えることもできる。
いずれにしても、この連作を単なる戯れ(言葉遊び)や技巧主義の表出とのみとらえることはできないだろう。

   *    *    *

ところで、いったん和歌の世界を離れてこの連作のことを自由に考えていると、たとえば、部分と全体が異なる意味をもつジュゼッペ・アルチンボルド(1527年-93年)の絵画が目に浮かんでくる。定家の世界観とアルチンボルドの世界観の比較なども一興だろう。
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テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/02/18(土) 14:35:11|
  2. 和歌および古典文学
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
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