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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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明月記研究10周年記念シンポジウムを聴く

昨日(11日)は、早稲田大学で開かれた「藤原定家と『明月記』―「明月記研究」10周年記念シンポジウム」を聴講した。
パネラーと講演タイトルは次のとおり。
尾上陽介氏「史料としての『明月記』」
田渕句美子氏「定家と『新古今和歌集』ーー家長本などをめぐって」
五味文彦氏「定家の空間と身体」
久保田淳氏「定家の生活と和歌」
また、司会は兼築信行氏と近藤成一氏。
非常に充実したおもしろいシンポジウムだったので、以下、その内容を簡単に紹介してみたい。

   *    *    *

尾上陽介氏「史料としての『明月記』」
尾上氏の講演の骨子は次のようなもの。
藤原定家の日記『明月記』の手書き原本は、清書された部分と清書前の部分が交互に出現し、清書されているのは定家および息子為家や、仕えている九条家にとって重要な時期である。一方、定家が参議を辞し、為家が定家未経験の蔵人頭となる嘉禄年間以降は、それまで定家自身が細かく書き加えていた首書(記事の内容を「何々事」といった形式で要約し行間上端に付けた見出し)が記入されていない。
尾上氏の区分によれば、清書されているのは、年号でいうと、治承、建久前半、建仁後半~承元の三期。一方、建久末~建仁初、建暦年間の記事は清書されていない。尾上氏が何をもって清書とするかというと、『明月記』には、たとえば行替えもめちゃくちゃで隣の記事の方にはみ出したような書き方をしている部分もあるのに対し、とある時期の記事は、紙の上と下に横線をひいて、上下がそこからはみださないように書いているという。
『明月記』に関しては、実はすべて定家が清書したものであるという考え方もあるのだが、当日出席した美川圭氏(冷泉家時雨亭叢書『明月記』編纂者で、定家手書きの『明月記』に実際に接している)も、『明月記』の一部は清書されていないという尾上氏の考えに賛意を表明した。そのうえで、美川氏の質問をとおし、古い紙の反古に書き付けた記事は、裏面をも残す意図があったのか、紙背文書は表の記事と関係があるのかが新たな課題として浮上した。
また、首書をつけるかどうかは、日記を記す目的や態度と関連があるのではないかということも尾上氏によって指摘された。つまり、『明月記』の初期の記事は、息子為家が朝廷で定家と同じような地位についたときの参考になるようにと書いていると考えられるのだが、為家が定家以上に出世したため、嘉禄以降の定家の朝廷での行動は、もはや為家の参考にならない。したがって嘉禄以降、定家は自分自身の好尚の問題として日記をつけていると考えられる。この問題は、後述する五味氏の講演内容ともからむ重要な指摘といえる。

meigetsuki-1.jpg
清書してある記事(記事の上下もきちんとそろっている)

meigetsuki-2.jpg
清書していない記事(上下や行もそろわず、定家が消した部分がはっきりわかる)

田渕句美子氏「定家と『新古今和歌集』ーー家長本などをめぐって」
田渕氏の講演は、『新古今集』の成立年代に関する新見解で、尾上氏の講演にも劣らない重要な意味をもつものだった。
『新古今集』の伝本には、①竟宴本(元久二年<1205年>に行われた『新古今集』竟宴<=完成披露の宴>の時の本文を伝える本)、②切継時代の諸本(竟宴後にたびたび行われた切継ぎ<=歌の入れ替え>の途中の段階の本文を伝える撰者たちの書写本)、③家長本(建保四年<1216年>に和歌所開闔<=事務責任者、カイコウと読む>の源家長が書写させた本、④隠岐本(承久の乱後、後鳥羽院が隠岐でそれまでの本を抄出した本)の四系統の本があり、従来学説では、源家長が和歌所開闔である点を重視し、家長本が『新古今集』の公的な最終完成形体を伝える本とされてきた。
田渕氏は、この家長本をむしろ私的な書写本と位置づけ、また『拾芥抄』に「承元三年六月可施行」とあるところなどに注目し、承元三年<1209年>から承元四年<1210年>を『新古今集』の公的完成・披露の年限であると位置づけしなおした(ちなみに、問題となる承元三~四年の『明月記』の記事は現存しない)。
それにともない浮上するのが「切継時代の諸本」で、従来の位置づけでは、これらは未だ完成していない『新古今集』を、(完成を待ちきれない)定家ら撰者が私的に書写して流布させてものと考えられていたのだが、田渕氏は、それは逆であり、承元三年に『新古今集』が「可施行」となったために、それを機に数多くの書写が行われたのだとした(つまり、御子左家などの歌道家に伝わるいわゆる「切継時代の諸本」こそ、『新古今集』の公的完成形体を示す本である。また源実朝が鎌倉で手にした『新古今集』は、従来学説に従えば私的な切継本に過ぎないが、田渕説に従えば、正式本ということになる)。
この田渕説は、『新古今集』の成立史を一挙に書き換えさせる大胆な新説だが、当日出席した研究者から妥当なものとして受け入れられた。

五味文彦氏「定家の空間と身体」
五味氏の講演は、従来の五味氏自身の定家研究を振り返り、それがいわば定家の「空間」を主題に展開してきたのに対し、新たな視点として「身体」という概念を導入し、この新視点から定家の人物や時代をもう一度読み直してみたいと思っているということを述べたエッセー的なもの。そうした新たな視点から、五味氏が現在重要視している重要な概念が披露された。
それらの概念は、①人の習うべきこと(大事)、②定家の空間と身体ーーの二つの範疇に大きく整理され、それぞれ、次のような下位概念を含むという。
①人の習うべきこと(大事)
 A 学問
 B 手書くこと
 C 医術
 D 衣への関心
 E 住宅への関心
②定家の空間と身体
 A 故実
 B 和歌
 C 書
 D 『明月記』

久保田淳氏「定家の生活と和歌」
最後に登壇した定家研究の第一人者・久保田氏は、冒頭、定家の和歌や日記を定家の身体性の問題に引きつけて読んでみたいという五味氏の考え方に賛意を示したうえで、『明月記』のなかで、そうした定家自身の身体感覚が見事に記されている好きな記事を自由に披露した。

四人の講演(報告)終了後の質疑応答は、尾上氏と田渕氏に集中したが、五味氏および久保田氏に対しては、会場から、定家の身体性を問題にするならば、速詠の和歌を取りあげてもよいのではないかという主旨の意見も出された。これは、尾上氏の講演で指摘された『明月記』の書き方の二つのスタイル(首書の有無)のなかで、どちらが定家にとり重要なのかという問題ともからむもので、定家初期の和歌は速詠などの手法で詠まれることが多いのに対し、晩年にはむしろじっくり詠むことが重視されることと、日記のスタイルの問題は合わせて考えるべきではないかということともつながる。
以下、質疑応答を離れた私見だが、一般論として、若い時代の定家は、歌では奔放、日記は厳格なのに対し、晩年は、歌は古典的で厳格になり、日記は私的な記事を中心として自在な書き方になっていくという風にとれる点は、定家という人物を考えるうえでおもしろいと思った。
またこのブログにも書いたとおり、私は、建久七年<1196年>の政変後の定家の歌は、緊張感が途切れどこかしらなげやりな感じがすると考えているのだが、尾上氏の講演での、まさしくこの時期の『明月記』は清書されていないという指摘と考え合わせると非常に興味深い現象だと思った。ただしこの『明月記』の清書の問題に関しては、清書する意図があったのに清書されなかったのか、清書する意図自体なかったのかは、シンポジウムでも今後の課題とされたことを付け加えておく。
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テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/03/12(日) 23:40:48|
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