le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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「事象そのものへ!」

今朝はブルーノ・ワルター指揮、ニューヨーク・フィルのモーツァルト交響曲第39番、第40番、第41番の演奏を聴きかえした。第39番は1953年12月および1956年3月の録音、第40番は1953年2月の録音、第41番は1956年3月の録音。私的な思い出を書けば、これはいずれも、私が最初に聴いた第39番~第41番の録音だ。

BW-Mozart-NY.jpg

1月28日付けの記事にも書いたように、私はその後、オットー・クレンペラーの演奏を聴くようになったので、このブルーノ・ワルターの演奏は、もはや用済みで聴くべきものは何もないと思っていた。それが文字通り何十年ぶりかでこれらの演奏を聴きかえしてみると、非常に引き締まったいい演奏で驚いた。そしてこれを機に、オットー・クレンペラーやジョージ・セルのモーツァルト演奏のことも合わせて考えてみた。
ブルーノ・ワルター(1876-62)、クレンペラー(1885-1973)、セル(1897-1970)はいずれもユダヤ人で、第二次世界大戦中にアメリカに亡命しているのだが、比較しながら聴きかえしてみると、この三人の演奏にはある共通点がある。それは音楽のテクストがとても明晰に聴こえるということだ。実は、この「明晰さ」という点はクレンペラー、セルの演奏を語るときには、まず第一に指摘される点なのだが、私には、ブルーノ・ワルターも同じように明晰な演奏をしているように感じられる。
したがって、ここからどうしても、ユダヤ人指揮者の音楽演奏という問題を考えざるをえないのだが、実は、ブルーノ・ワルターらの演奏の明晰さというのは、いわゆる民族的な「血」や感性の問題とは少し違うところからきているように、私には思われる。ではそれは何に由来するかというと、ドイツ社会のなかでユダヤ人が置かれていた疎外と関係しているのではないだろうか。
つまり、ブルーノ・ワルターらが育ち、活動を開始した19世紀末から20世紀はじめのドイツ社会のなかで、ユダヤ人の指揮者が社会に認められようとすれば、音楽的な感性や自己主張の展開の前に、まず技術的な完璧さを身につけなければならなかったということなのではないだろうか。すなわち、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)に代表されるようなドイツ人の指揮者が、自己の感性やドイツ共同体への帰属意識を前面に打ち出すことで、ドイツ人の聴衆の共感を得ていた時代、ユダヤ人の指揮者たち(いずれも先駆者グスタフ・マーラー<1860-1911>に影響されている)が本能的に選んだ方法論とは技術主義ではなかったか、そしてそれは彼らの社会的な疎外と関係していたのではないかと私には思えるのだ(技術をともなわず、自己主張だけのユダヤ人演奏家は、音楽界から排除される。非常に主観的だったといわれるマーラーの演奏は、ドイツ・オーストリア社会のなかで強烈な讃辞と批判を同時に浴びていた。にもかかわらずマーラーが指揮者として第一線で活動できたのは、彼にはそうした主観性を裏打ちする演奏技術の裏付けがあったからではないか。しかし逆にドイツ人の演奏家は、技術を犠牲にして自己主張をとおしても、「ドイツ的」「伝統的」として共同体意識のなかで許容される)。
通常、この19世紀末から20世紀はじめの演奏史は、主観主義と客観主義(新即物主義)の対立を軸に語られることが多いのだが、私にはそれは、事実の一面しかとらえていないような気がしてならない。
つまり、主観主義と客観主義という二分法に従えば、ブルーノ・ワルターは主観主義の演奏家の最右翼にいれられてしまうのだが(そしてクレンペラーとセルは典型的客観派)、実際には、フルトヴェングラー(主観的演奏の代表者)とワルターでは演奏の方向性がまったく異なる(いずれにしても、アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)をはじめとする客観主義的といわれる指揮者には、非ドイツ系の人物が多く、彼らは「伝統」の外にいたために客観主義的たらざるをえなかったともいえると思うのだが、この方法論と民族性の関連の問題はもう少し検討を要する課題といえるだろう)。
こうしたフルトヴェングラーとブルーノ・ワルターの演奏の方向性の違いが最も鮮明に出てくるのは、私はモーツァルトの音楽だと思うのだが、モーツァルトの音楽は、主観主義だけでは対応しきれない要素をもった音楽、いやむしろ、全体としてみれば反主観主義的な音楽だと思う。演奏をとおして自己主張する前に、まず音楽をきちんと鳴らし、音と戯れる感覚をもたなくてはならない。したがってフルトヴェングラーは、自己の方法論が適応できないのを自覚して、モーツァルトをほとんど演奏していないと思うのだが、対するブルーノ・ワルターは、20世紀におけるモーツァルト演奏の大家だ。そこで振り返ってなぜブルーノ・ワルターにモーツァルト演奏が可能だったのかを考えてみると、それはワルターの演奏には、単なる主観表現にとどまらない技術の裏付けがあり、モーツァルトの音楽の美を、純粋な音楽美として再現できたからだと思う。ニューヨーク・フィルを指揮したブルーノ・ワルターのモーツァルト演奏は、そうしたことを考えさせるに充分な演奏だ。
では、世にいわれるワルターの演奏の「主観性」とは何なのだろうか。私はそれは、ほんとうは「主観性」と呼ぶべきものではなくて、技術主義にのっとった上での、主観を装った巧みな「演出」だと思う。モーツァルト演奏でいえば、たとえば交響曲第40番1楽章のルフトパウゼ(空中停止)がそれだ。ワルターは、気分によって曲にルフトパウゼをいれたりいれなかったりするのではなくて、ニューヨーク・フィルとのモノラル録音でも、コロンビア交響楽団とのステレオ録音でも(そして有名なウィーン・フィルとのライブでも)、同じところ(第211小節の冒頭)に微かな間を挿入して音楽を息づかせる。技術があり、そのうえ技術を技術と感じさせない細かい演出もあるので、ワルターは人気のある指揮者だったのだ(人気という点だけに限っていえば、技術があっても「演出精神」を欠くクレンペラーやセルは、客観的にいって、現役時代、ワルター以上の人気があったようには思えない)。
ついでに言えば、技術をともなわない観念だけのドイツ系指揮者の典型がカール・ベーム(1894-1981)だと思う。多くの場合、私には、ベームの演奏を聴きとおすのが、正直いって苦痛だ。たとえば、タンタンタンと演奏すべき音符がならんでいるところ、若い頃のベームはタ・タ・タとやや短く演奏し、それが(たとえばワルターにくらべて)謹厳実直と評されていたように思う。しかし私からすれば、ベームの演奏は、歯切れがいいのではなくてリズム感が悪くて舌足らずなのだ。また逆に、晩年のベームは、同じような音符の連なりをタ~ンタ~ンタ~ンと弛緩しているとしか思えない演奏をする。日本には、クレンペラーやブルーノ・ワルターの演奏を、テンポが遅いからというだけで否定する批評家や聴衆もいるが、それは批評になりえてないのではないか。批評というからには、彼らがなぜそうした演奏をするかに立ち入ってテンポを問題とすべきだと思う。この場合、クレンペラーやワルターの演奏からこたえをひきだすのは簡単だ。それは音楽の細部を明晰に伝えたいからだ。クレンペラーやワルターは、いかにテンポが遅くなっても、ベームのようにリズム処理のあまい弛緩した感じのする音を鳴らすことはめったにない。しかし、ベームの演奏に、こうした明晰さを追求する姿勢があるのだろうか。明晰どころか、彼の演奏はしばしば濁った音を鳴らす。
要は、戦後のドイツでベームが高く評価されたのは、ユダヤ人演奏家の亡命とドイツ人演奏家の死亡で人材が払拭し、ベーム以外にはドイツ音楽の「正統」を伝えると考えられる演奏者がいなかったためではないだろうか(ベームの最大のライバルと考えられていたカラヤン<1908-1989>は、反フルトヴェングラーの旗幟を鮮明に打ち出し、カラヤンなりの方向で客観主義と技術重視を打ち出していた)。
したがって、いくら世評が高かろうと、私はベームの演奏はまったく評価しない(若い頃、ベームはブルーノ・ワルターからモーツァルト演奏について学んだというが、いったい何を学んだというのだろう。この二人ほどかけ離れた演奏家はまずいないのではないか)。
そんなことを考えているうちに、ブルーノ・ワルターがつねに語っていたという「ほほえみを忘れず」という言葉も、実は通常考えられているのとは違う意味をもっているのではないかと思えてきた。
これまで私は、この「ほほえみを忘れず」という言葉は、ブルーノ・ワルターの演奏の穏やかさ、優美さに結びつくもので、ある意味でとてもぬるま湯的な標語ではないかと思っていた。しかしそうではなくて、この言葉は、ワルターのユダヤ人的なしたたかさ、生き抜くための計算を示す言葉であって、これを文字通りにうけとって、ワルターの演奏を「つねにほほえみを浮かべた」ものと見なすことは、ブルーノ・ワルターの理解からほど遠いのではないかと思えてきたのだ。
つまり、「ほほえみ」という仮面の下に厳しさを宿した演奏、それがブルーノ・ワルターの演奏の本質ではないだろうか。

(この問題、19世紀末から20世紀のはじめにかけてドイツ思想界で現象学と論理実証主義という新潮流を生み出したエドムント・フッサール(1859-1953)とルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)もユダヤ人だということも合わせて考えるべきかもしれない。そして現象学も論理実証主義も、同時期に興隆した新カント主義などと比較しながらあえて分類すれば、「客観主義」を標榜する哲学だ。すなわち、フッサールの言葉を借りて、思想界の新潮流の関心をまとめれば、「事象そのものへ(Zu Sache selbst!)」ということになるのではないか。)
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テーマ:音楽 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/03/20(月) 14:11:51|
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