le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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ロベール・ブレッソンの作風をめぐって 1

たまには私事を…。

私が集中的に映画を観だしたのは高校時代だった。中学時代に私が住んでいた小さな町には映画館はなく、中学時代には、自分の意志で映画を観るというのはかなりの冒険だった。なにせ、一時間に一本の汽車にのって一人で隣の町に行き、駅から繁華街の映画館までくねくね曲がった道を歩いて行かなくてはならないのだから。まあそれでも、『ロミオとジュリエット』(フランコ・ゼフィレッリ)とか『卒業』(マイク・ニコルズ)とか、中学時代に観た映画はいっぺんで私をとりこにした。
高校は、幸いなことにその映画館のある町だったので、高校時代は、暇があれば学校をさぼって映画を観に行っていた。そんな私を新たにとりこにしたのが『テオレマ』(ピエル・パオロ・パゾリーニ)で、『卒業』に夢中になっていた自分を文字どおり卒業し、それからの私の思考はパゾリーニを中心に旋回しだした。
その年、私ははじめて、映画のベスト10というものを気にしながら映画雑誌を読むようになったのだが、そこでは、私のお気に入り『テオレマ』の評価は必ずしも高くない。そこではじめて、私は世の中にはいろいろな価値観があるということを知ったのだった。参考までに、この年(1970年)の『キネマ旬報』ベスト10作品を挙げておく。
1位『イージー・ライダー』(デニス・ホッパー)、2位『サテリコン』(フェデリコ・フェリーニ)、3位『Z』(コスタ・ガヴラス)、4位『明日に向って撃て』(ジョージ・ロイ・ヒル)、5位『M★A★S★H』(ロバート・アルトマン)、6位『テオレマ』(ピエロ・パオロ・パゾリーニ)、7位『王女ネディア』(ピエロ・パオロ・パゾリーニ)、8位『冬のライオン』(アンソニー・ハーヴィー)、9位『地獄に墜ちた勇者ども』(ルキノ・ヴィスコンティ)、10位『ひとりぼっちの青春』(シドニー・ポラック)
あとから考えてみると、この年は、アメリカからもヨーロッパからも、個性的な作家の映画が数多く公開された画期的な年だったのだと思う。パゾリーニに関して言えば、パゾリーニ現象は目だったものの、『テオレマ』と『王女メディア』で評がわれて、結果的にどちらも上位に食い込めなかったと言ってもいいと思う。
ところで、最初、世の評価とはそんなものかと思っていた私が、評論家といってもさまざまで、要するに、『テオレマ』を高く評価した評論家の発言や評価にだけ注目していればいいのだと気づくまでさほど時間はかからなかった。
そこで注目しだしたのが、飯島正氏だったり、滋野辰彦氏だったりするのだが、そうした人たちだけをピックアップしてベスト10を読み直してみると、ベスト10の様相はがらりと変わる。このお気に入り評論家ベスト10によって、私はたとえば『野性の少年』(フランソワ・トリュフォー)の重要さに気づかされた。
しかしこの選び直しによって最も評価がかわり、急浮上してきたのは、大多数の評論家によって無視された『バルタザールどこへ行く』(ロベール・ブレッソン)だった(飯島氏と滋野氏は、ともに同年のベスト1に推している)。私は、見方によってはパゾリーニ以上というこのブレッソンという監督が気になり(田舎では、ブレッソン作品はまったく観ることができなかった)、せめてもと思って、東京で公開された際のパンフレットを取り寄せたり、まだ観ぬブレッソン映画に思いを馳せるのだった。

    *    *    *

ブレッソン作品は、大学にはいって上京した後もなかなか観ることができなかったのだが(ちなみに私は、映画が観たいという理由で東京の大学を選んだ)、ようやく観た『バルタザールどこへ行く』は、私をすっかり昂奮させ、その後も、私が映画を考える際の規準の一つとなっている。
ところで、ここまでながながと思い出話を書いたのは、高校時代に入手した『バルタザールどこへ行く』のパンフレットをひさしぶりに読み返し、自分の思考が、結局はここに書かれていることを中心に旋回しているのだなと感じたため(たとえば、オットー・クレンペラーに対する私の思い入れは、もともとは、ブレッソンに対する思い入れを音楽という分野で探るところからはじまったものだ)。
要するに、ここまでの文章は、実は『バルタザールどこへ行く』をめぐる1970年当時の言説を紹介するための前置きだったのだが、以下、もはや入手はほとんど困難と思われる、公開当時のパンフレット(『アートシアター』76号)から、「ブレッソンという人と作風」という品田雄吉氏と浅沼圭司氏の対談の一部を紹介してみたい。

   *    *    *

balthazar.jpg

【ブレッソンの世界】
品田 ブレッソンのフランスでの評価はどうなんでしょうか。
浅沼 フランス人がブレッソンと比較というか、同じようなタイプだと言って持ち出すのは、カール・ドレイエルです。どっちもジャンヌ・ダルクをつくっているというわけでもないんでしょうが。テーマにある意味で共通性があるし、最初から最後まで一定のテーマをずっと守っているということと、映画作家には大変まれな”様式”を持っているという点などよく比較しているようですね。
品田 スタイルという点ではブレッソンは非常にきびしいものを持っていますね。
浅沼 ブレッソンのスタイルという場合、ぼくはほかの作家のスタイルとはちょっと違った意味を持っているような気がする。”スタイル”の解釈も大変めんどうくさくなるんだけれども、たとえばチャップリンのスタイルとかベルイマンのスタイルとか、ある作家個人に固有のスタイルということが一般的にはまず言われるわけですね。もちろん、ブレッソンにも一目でブレッソンだというスタイルはありますが…。
品田 スタイルというのは、文学でいう文体という意味ですか。
浅沼 そう言っていいと思いますけれども、ブレッソンの場合には個人のスタイルをもう少し乗りこえた映画固有の純粋化されたスタイルですね。ほかの芸術表現のスタイルとは全く違った、映画独自のスタイルを具体化しているような性質をブレッソンの場合は持っているんじゃないか。その根拠の一つは、これはブレッソンがよく言うことなんですが、映画というのは何ものかの写真ではない、”ものそのもの”なんだと言う。だから、どこかにある物語を映画でつくるとかいうふうな形で映画を考えていない。と同時にもう一つは、映画を使って自分を表すという、自己表現の手段としても映画というものを考えていない。もちろん創作行為ですから、結果としてブレッソンの個性なり人格あるいは世界観というのは当然表われるでしょうが。
品田 つまり、何かあることを言いたい、そのための手段としてたまたま映画があったということではない。
浅沼 ブレッソンの映画を見ていると、いわゆる世界とか現実とかいうものとの直接的な関係も切り落とされているような感じがします。もう一つ、ブレッソンという人間ですね。映画作家でないブレッソンという人間とのつながりもみごとに切り落とされている。そういう意味では、非常に誤解があるかもしれないけれども、ブレッソンの世界というのは大変みごとに完結した、個人からも社会からも抽象化された、全く一つのユニバースという感じで私は見るんですね。ところがブレッソンを問題にするときには、たいてい、その映画の世界のそれこそ神との関係とか情念だとか、内容面だけが重視され、表現そのものは必ずしも十分に問題にされない。おそらくそれは、ブレッソンは、たとえばゴダールとか、もう少し前のウェルズとかあるいは最近のアメリカにあるような新しさがみられないということによるものでしょうね。そういうものとの関係もなかなかつけにくい作家だと思うんです。
品田 そうですね。つまり、新しいとか古いとか、ちょうど現代にぴったりだというような尺度ではとらえられない何かを持っているということはいえるのじゃないですか。たとえばアラン・レネなどというのはそういう意味では、かなり新しさみたいなこととつながりやすい面があるけれども。
浅沼 そういう直接的な関係ではブレッソンというのは新しくもないし、少し大げさにいえば現代の芸術表現というようなものとの関係も直接的にはないのだけれども、いま言ったようなことを中心に考えてみると、やはりブレッソンの持っている現代性というか、その表現の持つ現代性は大変あると思うんですよ。
 最初にブレッソンの映画を見たのは『抵抗』だったんですが、あれを見たとき大変驚いたわけです。新鮮で。その新鮮さというのは、いまできたばかりという新鮮さじゃなくて、手アカにまみれてないという意味の、映画なら映画というものの手アカが一切なくなってしまって、むき出しのものが出ているという意味での新鮮さですね。
 『抵抗』が上映されたときに、いろいろな批評があったのですけれども、おもしろいと思った批評は、ある文芸評論家の批評です。彼はフランス系の文芸評論家ですから当然出てきたのでしょうが、象徴主義(サンボリスム)の詩の感じということと、もう一つ、「本来の意味での映画の古典主義」というふうなことばを使っていた。ことばというものには日常の会話の中で、本来持っているものの上にいろいろな習慣とか何かがひっついている。あるいは個人の情緒なり感情がひっついていて、結局個人の感情を伝えるためのものか、日常をうまく円滑にするための手段化して、ことばの本来持つものを隠している。そういう意味でのホコリを全部取り払って、ことばに本来の輝きを与えようというのが、いわばサンボリスムだというのが常識だと思うのですけれども、その批評家はブレッソンの映画に、まさに手アカにまみれた映画を本来の輝かしい姿に立ち戻そうという意志を見た、と言っているのです。それは大変正しいと思うんです。その感じというのはブレッソンの映画をいつ見ても、出てくるわけですね。結局、時代その他にかかわりなく、映画の持っている本来の姿を保ち続けているわけですからね。

品田 いろいろな手アカ的なもの、たとえばことばならことばにいろいろな要素がついてくる、そういう属性みたいなものは、状況が変わると変わっちゃうんですね。
浅沼 そうなんですね。だから、ときどきこういう批評を見るんですけれども、レネとかゴダールとかの最近の映画は、いわゆるモンタージュみたいなものの呪縛を全部断ち切ったところに成立している。ところがブレッソンの映画を見ると、大変みごとなモンタージュがあるわけですよ。そうすると、「古い」と言うわけです。エイゼンシュタイン以来のしっぽをくっつけているじゃないか、というんですがそうじゃないんですね。モンタージュというものは一般に言われているように、コンヴェンショナルなものとしてのみ理解されるべきではない。時流に乗っかって映画の表現が動いていったときにポッと出てきたものとしてのモンタージュじゃなくて、映画的なことばが本来持っている、画面と画面の関係をブレッソンはいまでも守っているところが、大きな違いと思うのですね。決して「いわゆる」モンタージュじゃない。
品田 モンタージュがあって、それが一種のテーゼだとすれば、そのアンチとしてモンタージュを全然無視したものが出てくるというような形でつくられている映画というのがあるわけですね。ブレッソンの場合は、ある何ものかに対して自分はこうやるというような、相関的なとらえ方をしていない。
浅沼 そういう意味では、一種の純粋主義者だろうし、映画というものの立場からみた絶対主義者ですね。 (続く)
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テーマ:映画監督 - ジャンル:映画

  1. 2006/03/21(火) 13:58:23|
  2. 映画
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:2
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コメント

はじめまして。
コメント&TB、ありがとうございます。
ブログ、大変興味深く、拝見しました。
ブレッソンに限らず、フーコーやハイデッガー、デリダなど、興味の対象が似ていて、ちょっとびっくりです。(それから、おっしゃる通り、ハンドルネームも似ていますね(笑))
これからも、ちょくちょく遊びに来させていただきます。よろしくお願いいたします。
  1. 2006/03/24(金) 23:31:10 |
  2. URL |
  3. le_fou #-
  4. [ 編集]

ようこそ♪

le_fouさん、ようこそ♪
le_fouさんによる浅沼さんの引用、とても興味深かったです。それとヒッチコックがポール・ニューマンを嫌ってたというエピソードもおもしろかった。
スタイナーの『ハイデガー』は私も読みましたが、ワイマール共和国時代(私からするとクレンペラーの時代)というのは、やはりとても不思議な時代ですね。
ブレッソンに限らず、またいろいろ語り合いましょう。今後とも、どうぞよろしく。
  1. 2006/03/26(日) 01:43:02 |
  2. URL |
  3. lunatique #tmBa20pk
  4. [ 編集]

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ブレッソンはお好き?

 先日(6/16)の記事で、ヒッチコックが、アクターズ・ステュディオ流の思い入れたっぷりの演技を嫌っていたことを書きました。  同様に、俳優の過剰な演技を嫌った作家に、ロベール・ブレッソンがいます。
  1. 2006/03/24(金) 23:26:53 |
  2. 哲学するサラリーマン

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