le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

ブレッソンとクレンペラーの対位法 1

『アートシアター』76号掲載の品田雄吉氏と浅沼圭司氏の対談「ブレッソンという人と作風」の引用紹介の冒頭にも書いたが、大学時代の私は、ようやく観ることのできたブレッソン映画(私が最初に観たブレッソン映画は、『バルタザールどこへ行く』の次に公開された『少女ムシェット』だった)にはまり込むと同時に、ブレッソンが映画において志向したものを音楽という別のジャンルの芸術において実現させたらどうなるかを求めてクレンペラーの演奏にたどりついたのだった。そうした点からすれば、ある意味、当然といえば当然なのだが、今読み返してみて、引用したブレッソンの作風をめぐる対談のなかの浅沼発言が、固有名詞をかえればほぼそのままクレンペラーの演奏評にも適応できるということに驚いている。というか、音楽のことしかわからない(もしかすると音楽のことすらわからない)批評家が、「主観性・客観性」の対立軸だけからクレンペラーを語るよりも、よほどいきとどいたクレンペラー評になると思う。
以下、その読み替えを試みる。

   *    *    *

まず、表現者としての「スタイル(様式/文体)」の問題。ブレッソンにとっても、クレンペラーにとっても、究極的にはこのスタイルの問題が最も重要なものになってくるといっていいと思う。
ところで、ブレッソン同様、クレンペラーは少し聴けばすぐにクレンペラーとわかる独自のスタイルをもった演奏家だが、そのスタイルというのが、私には「ほかの指揮者のスタイルとはちょっと違った意味を持っている」ように思われる。それはつまり、「個人のスタイルをもう少し乗りこえた音楽固有の純粋化されたスタイル」「ほかの芸術表現のスタイルとは全く違った、音楽独自のスタイルを具体化しているような性質を持っているんじゃないか」ということである。
浅沼氏はそれを、「映画というのは何ものかの写真ではない、”ものそのもの”なんだ」というブレッソンの言葉に結び付けて考えているわけだが、それに呼応するものとして、クレンペラーには、「たいせつなのはオーケストラに呼吸をさせるということ」「リズムのアーティキュレーションが演奏者に息をつくチャンスを与えるということ」「木管がきこえるということがもっとも重要」といった言葉がある。要するにクレンペラーは、音楽とは極言すれば音の連なりに過ぎず、そこでは”音そのもの”をどのように出すかが最も重要となるということをいいたいのだと思う(ついでに言っておけば、ワルターやセルの演奏でも、アーティキュレーションや木管は重要視されている)。
もっともこの部分は映画と音楽それぞれの芸術の根幹にかかわることで、安易な置き換えは危険でもあるのだが、その点では、「モデル(現実・具体)」との関連で成立する映画よりもモデルを必要としてない音楽というジャンルの方が、スタイルそのものを明確に打ち出すという点では有利だと思う。ただ逆に、まずモデルがあって、それからの離脱によってスタイルの存在をうったえる映画の方が、スタイルを強烈に打ち出しやすいという側面はあると思う。いずれにしても、クレンペラーは、「自己表現の手段として音楽を考えていない」、あるいは、「何かあることを言いたい、そのための手段としてたまたま音楽があった」という風には考えていないと思う。
つまり、この辺がクレンペラーの演奏に対する無理解や誤解のポイントなのだが、音楽を演奏者の「自己表現の手段」としてとらえようとすると、クレンペラーの音楽はまったくとらえようがないものとして立ち現れてくる。音楽を演奏者の「自己表現」の手段ととらえる論者の多くは、クレンペラーのライブ録音に注目して、スタジオ録音では最後まで冷静さを崩さないクレンペラーも、ライブでは燃える(自己表現する)といった評を行うことがあるのだが、私は、こうした評は完全な誤解だと考えている。要するに、クレンペラーは(たまたま燃える時があるにしても)燃える演奏など決してめざしていない。
したがって、クレンペラーの演奏を聴いていると、「いわゆる世界とか現実とかいうものとの直接的関係が切り落とされている感じ」が顕著であり、「指揮者でないクレンペラーとのつながりもみごとに切り落とされている」。そういう意味では、「クレンペラーの世界というのは大変みごとに完結した、個人からも社会からも抽象化された、全く一つのユニバースという感じ」で私は聴く。こうした「完結性」は、映画と違い、音楽であればきわめて当然のことなのだが、この当然といえば当然のことが行われていない演奏はあまりにも多く(だからクレンペラーの「スタイル」は非常に目立つ)、一般的にいえば、音楽評はこの完結性の問題には触れない。いやむしろ、一般的な音楽評は、本質的に個人からも社会からも抽象化された一つのユニバースを構築する芸術である音楽のなかに、個人や社会を持ち込むような演奏についてだけ語ることが多い(まあ、その方が語りやすいということはあるだろう。しかし、当然のことながら、語りやすさとすばらしさは等価ではありえないはずだ)。
クレンペラーの演奏を聴いた印象として、「手アカにまみれていないという意味の新鮮さ」「むき出しのものが出ている」という感じをうけるのも、浅沼氏のブレッソン評に通底する。象徴派の芸術理念からブレッソンを分析するという浅沼氏の試みは、クレンペラーの演奏にもそのまま適用できると思う。つまり、「手アカにまみれた音楽を本来の輝かしい姿に立ち戻そうという意志を見る」という感じは、クレンペラーの演奏を聴く場合、つねにまず最初に出てくる印象だ。しかしそれは、単純な客観主義や即物主義に還元できるものではなく、むしろ「音楽的なことばが本来持っている、音と音の関係をクレンペラーは守っている」というところからくるのだと思う。つまり、クレンペラーの演奏を聴いて驚くのは、演奏する曲に対して特定の解釈や逸脱がなされていることからくるのではなく、特別なことはなにも行われていないのにこの曲がこのように美しく響くのはなぜなのだろうという驚きなのだ。いや、だからこそその驚きは深い。
それと関連して、クレンペラーについて論じるとき、クレンペラーのことを知っている人であればすぐに出てくる彼の人生経験のすさまじさ、これをどう位置づけるかということが非常に難しい。クレンペラーという人は、ユダヤ人であったがゆえにナチスに演奏を拒まれアメリカ亡命を余儀なくされたというだけでなく、指揮台や飛行機のタラップからの転落、腫瘍による開頭手術、交通事故、大火傷(彼の写真は横顔をとらえたものが多いのだが、それは、正面から写すとみると、この火傷の痕があまりにも痛々しいからだと思う)などなど、通常の人であれば一度遭遇するのもまれな身辺の大事件にたびたび遭遇している。それらの事件は、生じるたびにクレンペラーの演奏活動を窮地においこむのだが、クレンペラーは単に事件の身体的ダメージから立ち直るというだけでなく、そのつど指揮者としても復活している(ただし晩年は、腕がほとんど動かなかったという)。そういうクレンペラーの伝記的事実を彼の演奏と結び付けようとしても、彼の演奏というのは、一聴したところ、「演奏家でないクレンペラーという人間とのつながりもみごとに切り落とされている」ように感じられるわけで(もちろんこれには、クレンペラーは腕がほとんど動かせなかったのでまどろっこしくかったるい、いわば「精神性」だけの演奏をしていたのだという、私には勘違いとしか思えない批評もある。しかし身体的な不自由さがクレンペラーの演奏に影響したとするならば、そういう人は、あの晩年にいたるまで崩れることのない音の磨き上げをどのように位置づけることができるというのだろうか)、その結び付け方が非常に難しい。
実は私は、結局、クレンペラーが受けた人生上の苦難は、彼の演奏に色濃く反映されていると考えているのだが、その反映の仕方が、通常の意味での反映とはまったく異なることに、クレンペラー独自の思想性があると思う。つまり、クレンペラーの人生経験は、一部の妥協も無きスタイルの追求ということで、彼の演奏に反映されてくるのだ。
スポンサーサイト

テーマ:音楽 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/03/25(土) 01:32:08|
  2. クラシック音楽
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<ピエール・クロソウスキーーーサドとヴィトゲンシュタインを繋ぐ人物 | ホーム | ロベール・ブレッソンの作風をめぐって 2>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://lunatique.blog20.fc2.com/tb.php/96-4f678f70
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

lunatique

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。