le monde lunatique

白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

私のブレッソン体験

ブレッソンとクレンペラーの対位法を書き継ぐ前に、私自身のブレッソン観・ブレッソン体験を少し書いておいた方がよさそうに思えてきた。浅沼圭司氏と品田雄吉氏のブレッソンをめぐる言説をクレンペラーに関する言説として読み替えるという作業そのものはさほど困難ではないのだが、その作業を機械的にすすめることがどれほど意味のあることかと自分でも疑問に感じられ、その疑問を解決するためには、自分自身のブレッソン感を書き、浅沼・品田対談を自分なりに肉付けしておくことが必要な気がしてきたからだ。

さて、私の高校生~大学生時代、家庭用ビデオというものは存在せず、テレビで放映される映画も限られていたので、観ることができる映画は非常に限定されていた。それでも東京に出て来ると、名画座あり、フィルム・センターありで、ようやくさまざまな過去の名作を観ることができるようになった。
それでもブレッソン作品の上映はない。そうしたなかで岩波ホールのエキプ・ド・シネマが発足し、その最初期の上映作品のなかにブレッソンの『少女ムシェット』が含まれていた。私はもどかしい思いで岩波ホールに行き、ようやく観ることがブレッソン作品『少女ムシェット』に非常に感動した。個人的には、『少女ムシェット』は、その後観た『バルタザールどこへ行く』とならぶ甲乙つけがたい傑作である。
ちなみに、『少女ムシェット』が公開された1974年は、ヨーロッパ映画の個性的傑作が数多く公開された充実した年だった。参考までに、この年のキネマ旬報ベスト10をあげておこう。
1位『フェリーニのアマルコルド』(フェデリコ・フェリーニ)、2位『叫びとささやき』(イングマル・ベルイマン)、3位『アメリカの夜』(フランソワ・トリュフォー)、4位『スティング』(ジョージ・ロイ・ヒル)、5位『ペーパー・ムーン』(ピーター・ボグダノヴィッチ)、6位『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(ルイス・ブニュエル)、7位『ジーザス・クライスト・スーパースター』(ノーマン・ジュイソン)、8位『黒い砂漠』(フランチェスコ・ロージ)、9位『デリンジャー』(ジョン・ミリアス)、10位『エクソシスト』(ウィリアム・フリードキン)
ブレッソンの『少女ムシェット』は、またもや批評家からも無視されているが、滋野辰彦氏がこの年のベスト1に推した。
私自身はというと、前年の暮に試写会で観たレネの『ミュリエル』にまず大感激して、翌年のベスト1はこれでいこうと思っていたところ、正月早々ベルイマンの『叫びとささやき』が公開されてどちらかをトップにするか迷いだしていた。ところが5月にはブニュエルの『ブルジョワジーの密かな愉しみ』が公開され、この自在な作法はレネ、ベルイマンをも上回ると、脱帽した。レネ、ベルイマンが、ある意味で私が想定していた常識のなかで映画をつくり、その範囲のなかでの「映画的」感慨だったとすると、ブニュエルはもう、そうした「映画」としての常識を完全に覆していたのである。しかも、『ブルジョワジーの密かな愉しみ』を観ればすぐにわかるのだが、そうしたブニュエルの破格の映画作法(スタイル)は、この映画をとおして示されるブニュエルの人間観と直結するものであり、『ブルジョワジーの密かな愉しみ』という映画は、その語り口なしには意味をもたない(つまり、ブニュエルの人間の見方・とらえ方が破格だとすれば、それを他者に伝達するつたえ方・表現方法も破格だった。逆にいえば、表現方法の破格さからもブニュエルの人間把握の破格さがわかる。いや、そうした表現方法なしにオーソドックスな方法<=枠組>でその人間観が表現されたとしたら、結局われわれは、そうした人間観を既存の月並みな枠組のなかに組み入れ、既存の枠組のなかで位置づけてしまうだけだろう。だから私は、このユニークな作品を『ミュリエル』よりも『叫びとささやき』よりも高く評価する)。
そうしたことから、『ブルジョワジーの密かな愉しみ』こそ数年に一度の傑作と考えていたところ、9月に『少女ムシェット』が公開され、私はまたもや驚天動地した。ブニュエルの『ブルジョワジーの密かな愉しみ』が、映画の常識を覆すために考えられるありとあらゆる手段を駆使していたのに対し、ブレッソンは、(一見したところ)そうした目だったわざを何もつかわずに、いや、わざをつかわないことで映画の常識を覆してみせたのである。高校生時代からどのような作家かといろいろ想像し、期待をふくらましていたブレッソンが想像をはるかに上回る作家であったことに、私は完全に圧倒された。

   *    *    *

さて今、ビデオやDVDでブレッソン映画を確認しながらこの記事を書ければ、私の個人的なヨタ話よりよほどましなのだが、DVDは無し、ビデオは故障という悲惨な状況なので、記憶のなかから思い出を引き出して、ブレッソン作品について書いてみる。
浅沼・品田対談のなかでは、ブレッソンのスタイルのことがまず問題にされているが、実際に『少女ムシェット』を観てまず最初に見事と思ったのも、このブレッソン独自のスタイルだった。
一口にブレッソンのスタイルといってもいろいろな特徴はあるのだが、最も有名で顕著なのは(そして私にもすぐ目に付いたのは)、全身や上半身のショット、顔(表情)のクローズ・アップをほとんど行わず、たとえば、誰かが歩いているといえば足、モノをつくっているといえば手、何かを見ているといえば目という具合に、人間の身体の一部だけを写したショットが非常に多いこと。これがブレッソン的な「明晰さ」に繋がると同時に、映画に強い緊張を生み出していた。
たとえば、ある人間がとあるモノに近づいてそれを手に取るといったシーンで、通常ならばカメラが登場人物と一定の距離をおいておかれ、その人物の全身を映し出しながら、画面の中で人物を動かし(演出し)その人間にモノを手に取る仕草をさせるのに対し、ブレッソンは、まずその人物の足を写しだし(歩く)、次に目のクローズ・アップ(モノを見つける)に切り替え、続いてモノをつかんでいる手のクローズ・アップに移る。この結果、われわれは、画面に映し出されている登場人物の意志とはかかわりなく、モノがある人の手に取られるというシーン(そのもの)に直面する。通常の映画のようにこれをワン・ショットにおさめると、どうしても、あるモノを手にとるという動作の背景にその人物の何らかの心理や動機を想定せざるをえない。
ブレッソンの場合、実は、人間のさまざまな動作から「心理」を排除するためにこうした細かいショットをモンタージュして画面の流れ(シーン)を構成しているわけで、そのスタイルと狙いが見事に合致している。

Bresson-mains.jpg
手が思考する?(『バルタザールどこへ行く』より)

ところで、ブレッソンは、自分の映画を定義して「アクション映画」だということがある。これは、いわゆるアクション映画に対する痛烈な皮肉ととれないこともないのだが、それはともかく、ブレッソンが嫌うのは、人間の行動の背景に、常に感情、心理といった動機を想定し、それによって人間の行動を解釈することで、そうした「心理映画」に対するアンチ・テーゼが、心理を排除した「アクション映画」であり、そうしたアクション映画を実現するためには、人間の身体動作の一部ずつを組み立てて映画をつくっていくしかないということになる。
こうしたブレッソンの映画では、画面に映し出される人間への(観客の)共感・感情移入が映画を牽引していくのではなく、画面と画面が結び付けられるリズムや緊張感が映画を牽引していく。浅沼・品田対談でいえば、このことが、「ブレッソンの場合には個人のスタイルをもう少し乗りこえた映画固有の純粋化されたスタイルですね。ほかの芸術表現のスタイルとは全く違った、映画独自のスタイルを具体化している」(浅沼氏)という発言に繋がっていると思う。極端にいえば、ブレッソン映画では、さまざまな人間の動作は、その人物や物語を説明するためではなく、次にまた緊張した画面を呼ぶために必要とされるということになる。
たとえば『抵抗』(1956年作品)という映画は、死刑囚が脱獄するために、ほとんど何もない独房でさまざまな道具を作り出し、脱獄するプロセスを描いた映画であり、続く『スリ』(1959年作品)は、主人公であるスリが、他人のポケットからモノを取り出す瞬間を繰り返し繰り返し、執拗に描いている。『抵抗』にも『スリ』にも、物語らしい物語はほとんどなく、むしろ、ストーリーはそうした部分(プロセス)を呼び込むための約束事として付着しているような印象がある。
こうしたことの必然的結果として、ブレッソンは、出演者が演技をすることや、何かを表情に表すことを嫌う。またそうした結果につながりやすい職業俳優の起用をも嫌う。
しかしブレッソンがいくら出演者の演技や感情表現を嫌っても、人間を主人公とする限り、作品から演技や感情表現を完全に排除することはできない。そこで『バルタザールどこへ行く』では、最初から演技もしなければ感情表現もしない(できない)ロバを主人公にして、ブレッソンは理想的な「アクション映画」をつくりあげようとしたのではないだろうか。この映画のストーリーを簡単に要約すれば、『バルタザールどこへ行く』は、バルタザールと名づけられ、カトリックとしての洗礼を受けたロバが黙々として荷物を引き、むち打たれ、歩き続け、死ぬというプロセスを描いた作品である。そこでは、何の心理的説明も感情表現もないロバの行動が、感動や美的昂奮をもたらす。しかし、この映画の主人公であるロバを何者かの象徴とみたり、ロバの行動に何かの意味を見出そうとするのは、ブレッソンの意図に反していると思う。
私が最初にこの映画を観た時に特に強い感銘を受けたのは、ロバであるから当然なのだが、主人公のバルタザールが一言も言葉を発しないこと、にもかかわらずバルタザールの生き様、その喜びや苦しみが理解できるように思われたことだ。そして映画を観おわってから、そうした感銘を今度は何か「言葉」で表現しようとしてみたとき、言葉が完全に無力であるということにも気づかされた。言葉や余計な説明がないからこそ、バルタザールの行動は瞬間ごとに自足した完全なものであり、了解可能なのであって、言葉によってそれらの場面から受けた印象を伝えようとすれば、どうしても部分的で不完全なものたらざるをえないのである(この映画のなかでは、バルタザールの周囲の人間が発する言葉は「雑音」のように聞こえる。あるいは少なくとも、彼らがそれによってうまく意志を通じ合えているようには感じられない)。
『バルタザールどこへ行く』は、表面的にはどこまでいってもロバの一生を描いた映画であり、それ以外の何ものでもないのだが、実は、ブレッソンが問題にしているのは人間コミュニケーションのあり方であると思われた。

   *    *    *

人気blogランキングに登録しました。クリックお願いします♪
banner_01.gif

スポンサーサイト

テーマ:映画監督 - ジャンル:映画

  1. 2006/03/29(水) 14:46:27|
  2. 映画
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<ブレッソンとクレンペラーの対位法 2 | ホーム | ピエール・クロソウスキーーーサドとヴィトゲンシュタインを繋ぐ人物>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://lunatique.blog20.fc2.com/tb.php/98-2f6fa123
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

lunatique

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。