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白銀色の月光を浴びて、狂ってしまったのは世界?それとも私?

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ブレッソンとクレンペラーの対位法 2

『アートシアター』76号掲載の浅沼・品田対談にそった「ブレッソンとクレンペラーの対位法」の記事、続けてみよう。
そこでまず問題にしたいのは、①「映画をつくること自体が一種の哲学」「ブレッソンの場合、語ることと考えることが全く一致している」と、②「主知主義的な、あるいは明晰さというものは、ブレッソンの根本的な資質」という二つの指摘だ。

まず第一の指摘。
これは非常に重要な指摘で、直接的には何のために映画をつくるのかという問題とかかわってくると思うが、それをさらに普遍化すれば、芸術表現は何のために行われるのかということにもなるだろう。そしてそのように普遍化すれば、それは音楽表現(演奏)をめぐる議論としても十分通用する。
クラシック音楽の演奏では、一般的に、はじめに「曲(作品)」があって、演奏者は、作曲者が何を伝えたいのかを自分なりに分析し、その分析結果(曲に対する解釈)を演奏をとおして提示すると考えられていると思う。しかし私からすれば、ここにすでに落とし穴があるのであって、このような考え方でいくと、演奏において最も重要視されなくてはならないのは、「何を語るか」もしくは「曲の内容」ということになってくる。音楽の場合、はたして「曲の内容」と「曲の形式」とを明確に分離することができるのだろうか。
結論を急がないようにしよう。
実は、西洋音楽においては、この問題はベートーヴェンを境にして二通りの回答がありうると思う。つまり、ベートーヴェンとそれ以降の作曲家の楽曲は、ある意味で「内容(語りたいもの・伝えたいもの)」を形式に優先させ、既存の形式を破戒することでそれを実現していった。ところがそれ以前のバッハやモーツァルトの楽曲というのは、曲の直接的なメッセージ性は希薄で、それよりは形式美や形式にそって演奏する歓びを聴く人に伝えるというタイプの音楽ではないだろうか。つまり、モーツァルトとベートーヴェンのあいだに、音楽とは何か、楽曲が伝えようとするものは何かをめぐる大きな断層があるのだ。当然、その断層の前と後では、演奏(曲の伝え方)は変化せざるをえないということになる。したがって、演奏に際して内容を優先させるか、形式を優先させるかは、モーツァルト以前とベートーヴェン以降とどちらを主にして楽曲を考えるかという問題ともなろう(いったい、ベートーヴェンの第五交響曲(「運命」)や第九交響曲による「感動」と同じようなものを、何でもいい、モーツァルトの楽曲で味わうということがありうるだろうか)。
ここで非常に大ざっぱな言い方をすれば、実はベートーヴェンが本格的に活動しだした19世紀という時代は、社会全体をとおし、どう語るかよりも何を語るかが重視された時代だったと思う。音楽表現(作曲・演奏)が「内容重視」に傾いたのも、こうした社会全体の要請と無縁ではないのではないだろうか。
19世紀の末頃から、こうした社会の要請に対する疑問が登場してくる。
たとえば、クレンペラーとも親交があったストラヴィンスキーやシェーンベルクの音楽は、「どう語るか」という問題の登場と同時に、それまで全く存在しなかった新たなタイプの語りとしてスポットライトを浴びるようになった音楽ではなかったか。彼らの音楽においては、「新たな内容(思想)」はとりもなおさず「新たな形式」「新たな響き」として表現される。ドビュッシーやラヴェルをそれに加えてもいい。ストラヴィンスキーらにおいても、ベートーヴェンの時代に生じたように既存の形式は破戒されるのだが、それは、形式から切り離された超越的音楽思想を求めての破戒ではない。それは形式の破戒、新たな響きの探究がそれ自体一つの思想性をもつような、そうした種類の破戒だった。したがって、調性の破戒=音楽の身体性の破戒といった通俗的理解とは逆に、こうした運動を、音楽における身体性の回復の動きといってもいいかもしれない。バッハやモーツァルトの音楽も、こうした問題意識の登場に応じて、19世紀末から20世紀初頭に再評価され、さかんに演奏されるようになった。

klempeler-stravinsky.jpg
ストラヴィンスキー(左)とクレンペラー(右)<1928年、ベルリン>

要は、音楽表現(演奏)には、本来的に二つの方向性がありうるのであって、その一つは、18世紀までの音楽と20世紀の音楽がめざす、「音」に徹底的にこだわり、「音」そのものの可能性の追求として音楽をとらえるという方向で、もう一つは、19世紀音楽がめざしたような、音楽を出発点として、それをとおして何ものかを徹底的に語ろうという目的論的な方向性だ。後者においては、語り口=どう語るかは結局手段の問題でしかない。最終的には、何を語ろうとするか、その思想の高さが音楽や演奏をはかる規準となる。私は、音楽演奏における「主観主義」の実態は、こうしたところにあるのではないかと考えている。
さてここまでくれば少し書きやすいのだが、クレンペラーが音楽から排除しようとするのは、実は、主観性というよりも目的論的な考え方だと思う。彼の演奏は、けして単純な客観主義や即物主義に基づくものではない。だから私は、「映画をつくること自体が一種の哲学」「(そういう意味の哲学で問題になるのは、「何が語られたか」であって「どう語られたか」は必ずしも思想とは関係ないと考えられることが多い、内容がよければ少しくらい語り方が拙劣で、というような区別の仕方をよくやるのだけれども、)ブレッソンの場合、語ることと考えることが全く一致している」といった浅沼圭司氏の発言をクレンペラーに関してもそのまま当てはまると考えている。
つまり、クレンペラーの演奏においては、「何を語るか」「何を伝えるか」の前に、演奏スタイル、すなわち「どう伝えるか」がつねに第一の問題となるのであり、「どう伝えるか」を無視した音楽的メッセージはありえない。スタイルの追求において、クレンペラーは非常に厳しい。それは、彼の人生すべてを凝縮した厳しさだと思う。クレンペラーにとって、「語り方が拙劣である」ということは、「内容が拙劣である」ということなのだ。かくてクレンペラーの演奏では、音楽はひたすら純粋な音の戯れ(jeu)をめざしていく。しかし「戯れ」といっても、それは中途半端な生やさしいものではない。主観性であれなんであれ、その戯れを妨げるものは演奏から積極的に排除される。「感動」「共感」といった曖昧なものには、一切目もくれない。彼は、聴衆の「新鮮な」感動や共感を引き出すためにいわゆる客観的演奏を行っているのではない。もしそうだとすれば、それは主観的演奏と同様、断罪されなくてはならないだろう。演奏においてクレンペラーがめざすのは、聴衆に冷や水を浴びせかけ、第一次的な感動や共感から引き離すことなのだ(フルトヴェングラーの炎の演奏に対する氷の演奏)。この意味において、クレンペラーは、「一種の純粋主義者だろうし、音楽というものの立場からみた絶対主義者」である。
ただ、以上のような考え方をふまえたうえで考察をすすめていくと、ブレッソンの表現とクレンペラーの表現、すなわち映画と音楽の間の大きな相違も気になってくる。
それは、いわば表現の「素材」の問題なのだが、音楽は、それ自体何の意味ももたない「音」を素材とするのに対し、映画は、つねに「何か」をスクリーンに映し出さなくてはならない。「何か」を映しだした時点で、その「何か」はとある意味性をもってしまう。映画は本質的に「意味」の呪縛から逃れることのできない芸術だといっていい。そうした点において、「語り」そのものに的をしぼって表現行為を行おうとするブレッソンの出発点は、クレンペラー以上に困難だともいえる。浅沼氏が引用する、「映画というものは何ものかの写真ではない、”ものそのもの”なんだ」というブレッソン発言は、この観点から、もっとつきつめられなくてはならない。
逆にクレンペラーの場合、クレンペラーのめざす方向性が音楽表現の二つの方向性の一つであるということは、これだけではクレンペラーの演奏を評価する決め手にはならないことを意味する。
(私がここまで書いてきたことを、音楽演奏に関して至極当然のこととして読まれた方もいると思うが、「音楽界」では、この当然のことが当然として受け止められていないため、クレンペラーの評価は非常に低い。世の多くの音楽評は、クレンペラーに目的論的な演奏を求め、それがまったく見当たらないからといって、クレンペラーは「大味」「ぼんくら」と評される。)
問題の所在がようやく見えてきたようだ。対位法を続けよう。

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テーマ:エクリチュール=記号論の最初の一歩 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/04/02(日) 16:00:55|
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  4. | コメント:1
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  1. 2006/04/03(月) 01:45:31 |
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